第8話 定時の理由

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 午後からは、溜まっていた照会案件や決裁、内部資料の作成に取り掛かったが、悪寒と倦怠感で思うように仕事が進まない。 「係長、工事の件でちょっと相談が……」  向かいから塚田さんの声がした。 「実は、護岸の補修工事で今日から木抗を打ち始めたんですけど、河床から1. 8mあたりで地層が固くなって入らないって業者から連絡があったんです」 「設計根入れ長はいくらだっけ?」 「2mです」 「あと20cmか。設計の根入れの考え方は?」  塚田さんは資料を取り出すと、該当部分を俺に示した。 「本来は、地面から河床までの深さと根入れの比率を守ればいいので、20cm足らなくても十分必要長さはとれてます。ここは河床までの深さが部分的に浅かったので、杭の長さを一定に設計した結果、余分に根入れを確保する形になってます」 「そっか……。必要長さが確保できてるなら上端とばしていいんじゃないかな。業者と打合簿かわして……あと設計変更の対象になるかどうか積算の考え方調べて整理してくれる?」 「分かりました」  彼女は丸い瞳でじっと俺を見つめている。 「どうした……?」 「大丈夫ですか?」 「なにが……?」 「なんか目に力が入ってないですけど、熱でもあるんですか?」  そう言われて考えてみると、確かに頭がぼんやりする。 「係長ってほんと体力ないですね。毎年風邪引いてません?」 「俺は塚っちゃんと違ってデリケートなんですう……」 「誰が馬鹿は風邪引かないって?」 「そんなこと言ってない……」  定時のチャイムが鳴ると、すぐにパソコンを閉じて立ち上がった。  それだけで頭痛と立ちくらみがする。  熱が上がってきているようだった。  ふらつきながらロッカールームに移動し、作業服からスーツに着替えていると、私服に着替えた橘が隣に立っていた。 「一緒に帰りません?」 「別にいいけど、風邪がうつっても知らないからな……」 「大丈夫です。俺、ちゃんと自己管理できてるんで」 「塚っちゃんといい、お前といい……病人に対するあたりキツくないか……?」  歩くだけで息を切らし始める体で何とか地下鉄に乗車すると、運よく乗客の入れ替わりで席に座ることができた。  正直揺れる電車の中で立っていられる程の元気はない。 「朝から体調悪かったんですか?」 「う〜ん……朝は大丈夫だったんだけど、西山さんのおかげで熱出た……」 「娘さんに紹介したいって言ってた人ですよね。その人まだ諦めてないと思いますよ。係長への執念凄そう」 「やめてくれよ……なんだよ執念って……」  電車は桜木町駅から10分ちょっとで上大岡駅に到着した。 「着きましたよ」  隣で眠る上司の肩を揺するが、返事がない。  すっかり熟睡してしまったようだ。  何度声をかけても起きる気配がなく、無情にも電車は次の駅へと向かい始めている。  そのまま5駅先の戸塚駅に着くと、俺に寄りかかって気絶しているその肩を組み、何とかホームに降り立った。 「とりあえず、俺の家まで歩けますか?」 「……え? ああごめん、決裁まだ確認できてなかったか……」 「決裁? いや、俺の家に向かいます」 「っ……ごめん、急ぎだった?……すぐ、確認する──」  熱に浮かされ、会話がまるで通じない。  夢の中に片足突っ込んでもなお、仕事をしてるのか。  そう思うと、なんだか可哀想に思えてくる。   「ちょっと何言ってるか分かんないんで、早く帰って休みましょう」  駅前でタクシーを拾い、アパートに着くとそのままベッドへ直行する。 「スーツ、皺になるんで脱いでくださいね」  何度か声をかけるが、ベッドに横倒しになったまま生返事をするだけで、一向に動く気配がない。  半分意識が飛んでいるため、俺が脱がせるはめになる。 「どうしてこんな状態になるまで頑張るんですか。自己管理甘すぎでしょ」  愚痴を言ってもどうせ聞こえていないので好き放題言わせてもらう。  上着を体から引き剥がすためにその腕や背中に触れたが、ワイシャツ越しでも痩せていて肉がないことが分かる。  仕事のストレスで太れないタイプのようだ。 「スラックスは脱げますか? 俺の部屋着ですけど、よかったらこれ着てください」  スウェットのセットアップを差し出すと、ぼんやりとしながらも素直に指示に従ってくれた。  サイズ的には一回り大きいようで、胸元からは普段拝むことのできない白い鎖骨が見えている。  蛍光灯の光に照らされ、陰影によって浮き出たその太い骨が何とも言えず艶かしい。 「……エロいんですけど」  意味のわからない苦情を申し立ててみたものの、業務時間外のため対応してくれない。  俺の邪心など露とも知らない係長は、促されるまま横になると、そのまま気絶するように眠ってしまった。
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