第8話 定時の理由

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 手早くシャワーを済ませると、彼を起こさないよう、足元の間接照明だけを点したリビングに戻った。  冷蔵庫に作り置きしていたハンバーグと温野菜を温め直し、ソファに座ってテレビをつける。  消音モードにしてチャンネルを回していると、熱に魘されたような声が聞こえた。  足音をたてないよう、そっとベッドに近付くと、発熱で額からは汗がにじみ、辛そうに眉を寄せていた。  額に張り付いた前髪を耳へ流すと、長い睫毛の下で薄く瞼が開く。 「あ……起こしましたか?」  内心動揺しながら手を引っ込めたが、ぼんやりとしていて反応がない。  今なら、何をしても許されるだろうか──。  再び瞳を閉じたその隙をみて、ゆっくり顔を近づけると、白くて滑らかな肌が眼前に迫った。  薄くてほんのり色づいた唇が柔らかそうで、つい指で突きたくなってしまう。  汗ばんだ掌でもう一度、その細くて柔らかい髪に触れた。  係長の仕事に対する姿勢や、部下思いで優しい性格、整った容姿、側で見ていてこれが欠点だと感じる要素が一つもない。  だけど、そんな完璧な人間でも、弱くて脆い部分があった。  誰にも侵されないよう、笑顔の下で頑なにガードを張っているが、他人が一歩でも踏み込んでしまえば、途端に積み上げてきたもの全てが崩れ落ちてしまうような──。  俺の場合、性別関係なく人を好きになれることは、公言こそしないものの長所だと思っている。  だから、こんなに繊細な人がこれまで抱えてきた葛藤や悩みを、100%共感できるかといえば嘘だ。  でも、だからこそ、あの辛そうな表情を見た時、この人には支えが必要だと思った。  (しお)れて枯れてしまわないように。  上司と部下の関係じゃなかったら、係長は俺を男としてみてくれるだろうか──。  
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