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第9話 水面下
週明けの月曜日。
熱も下がって体調が回復した俺はいつもどおり職場に出勤した。
「おはようございます。 体調どうですか?」
塚田さんが疑わしそうにこちらを見つめている。
「おはよう。お陰様で全快しました」
「それはそれは」
「いや、そんなことより塚っちゃん」
再び顔を上げた彼女に声を潜めて問いかける。
「係長試験のことなんだけど、今日が申し込みの締切らしくて課長が気にしてたけど、ほんとに受ける気ない?」
「ああ、だって私、そんな実力ないんで」
彼女はあっさりとそう言い放つ。
「いや、そんなことないって。最初から一人前の係長なんて誰もいないんだから、自分でハードル上げることないよ。勇気出してチャレンジしてみたら?」
「無理無理。私、係長みたいに頭良くないし、判断力も調整能力もないから」
目の前で手を振られ、取り付く島もない。
また課長に小言を言われるなと思案していると、傍らから声をかけられた。
相川さんが書類を持って佇んでいる。
表情が固く、どことなく元気がない。
「松田さんへの説明資料をコピーしたので、先に係長の分をお渡ししておきます」
今日はこれから太田川の松田さんの自宅を訪問することになっている。
例の暴行騒動の後、すぐに相川さんを連れて男性の元へ伺っていた。
その際、相手の主張する外壁の損傷部分について確認を行い、工事前に実施した家屋調査の結果を整理して報告することになっている。
太田川は、車で1時間ほどの市街化調整区域を南北に流れる二級河川だ。
幅員12mの二車線道路が川と並走していて、周囲に主要な幹線道路がないために交通量が多い。
現場事務所に車を駐めると、その川沿いの道を歩いた。
車の往来は激しいが、片側に歩道が整備されているため歩きやすい。
道路を挟んで斜め向かいには、立派な日本家屋が建っていた。
門扉には松の木が雄々しく枝を伸ばし、手入れの行き届いた日本庭園が玄関扉へと続くアプローチを形成している。
インターホンを鳴らそうとすると、ちょうど庭先で初老の女性が門掃きをしているのが見えた。
市役所の職員であることを告げると、彼女は会釈をしながら家の中へと姿を消し、代わりに例の男性が姿を現した。
太々しい態度で一瞥されると、殴られた時の痛みが蘇り、無意識に背筋が伸びる。
「先日はありがとうございました。松田さんからご説明いただきました外壁の損壊箇所の件で、工事前に実施した家屋調査の結果をお持ちしました」
彼は無言のまま玄関先に腰を下ろすと、顎で説明を促した。
相川さんが家屋調査報告書の抜粋資料を提示し、概要説明を行う。
緊張しているのか、固い表情で何度も言葉を噛んでいる。
一通りの説明が終わると、男は彼女には目もくれず、俺に向かって口を開いた。
「で? 何が言いたいんだ?」
「事前調査の結果によりますと、松田さんが主張されておられる外壁の損傷箇所は工事前から存在していたものです。その点はご理解いただけますでしょうか」
「こんな写真、どうとでも偽造できるじゃねえか」
「家屋調査で使用するSDカードは改ざん防止付きの機能を有する特殊なものを使用しています。我々だけでなく、撮影した業者であっても改ざんはできません」
「はいはい、お前らの主張はわかった。文句があるなら裁判しろってことだな。用件が済んだならとっとと帰ってくれ」
険しい表情でサンダルを脱ぎ捨てるその背中に、俺は食い下がった。
「松田さん、我々は現時点で補償しないと言っているわけではないんです。以前もご説明させていただきましたが、事後の家屋調査でひび割れの一定の変状や傾きなどが認められた場合には、国が定めた算定基準に基づいて補償させていただきます。裁判されるか否かは松田さんのご判断となりますが、それは事後調査の結果が出てからでも──」
彼は舌を打つと、まだ説明が終わらぬうちに手元の資料を俺に投げつけた。
相川さんが時間をかけてまとめてくれた資料だ。
胸が痛くなる。
「もう顔も見たくねえって言ってんだ! さっさと帰れ!」
「……わかりました。また何かありましたら、いつでもご連絡ください」
一礼して顔を上げた時には、男は既に廊下の奥へと姿を消していた。
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