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第2話 優秀な上司
「我々農家組合の要望として、個人に1つずつ井戸を設置してもらいたい。それ以外の方法は受け入れられない」
改築したばかりだという12畳ほどの客間に力強い声が響く。
マーブル模様を描く大理石のローテーブルを挟むように、黒い革張りのソファが向かい合わせに据えられている。
座ると重みで深く沈むのだが、この状況ではとても落ち着けそうにない。
俺は、係長と共に御陵川の河川改修に伴う農業用水補償の件で、堰を管理している農家組合長の元へと協議に来ていた。
河川を改修する際、川の中に設置されている堰を撤去することになるため、工事着工までにその補償方法について話し合わなければならない。
部屋の空気が張り詰める中、係長が穏やかな口調で話し始めた。
「個別に井戸を掘るというのは、堰を復元する以上に工事費が高くなりますので、我々としましても対外的な説明が難しくなります。なんとか、堰の復元ということでご理解いただけないでしょうか」
「堰は管理が大変だ。高齢のワシらに雨が降るたび走り回れというのか」
「最近では雨が降り、河川の水位が上がりますと、自動的に転倒する堰もありますので、これまでに比べれば格段に管理が楽になると思います」
「駄目だ。自動転倒したかどうか、結局誰かが見に行く必要があるだろう」
「ご指摘のとおり機械に絶対はありませんので、目視確認はしていただいた方がより安全かとは思いますが……」
相手の威圧的な態度は変わらない。
俺は2人の会話をノートに書き留めながら視線を前方へ移した。
厳しい顔つきをした浅田会長が腕組みをしたまま書類を睨みつけている。
よく日焼けした土色の肌に目尻の皺が白い線を描いていた。
白髪が入り混じった顎髭は短く刈込まれ、無精に生やされたものではないことが分かる。
係長は、少し前傾姿勢をとると、相手の目を捕らえて語りかけるように話を繋いだ。
「では、共有井戸ではいかがですか。お一人お一人に井戸を設置するのは難しいですが、皆さんで数カ所の井戸から取水していただけるのであれば、対応は可能です」
「共有井戸か……。いや、井戸を共有すると、田に水入れする際、農業用水路を経由して取水せにゃならんだろう。用水路は老朽化していてぼろぼろだ。井戸から取水する際に電気代を払うことになるのに、貴重な水が漏れては困る」
「これまで用水路の修繕はされてこなかったんですか?」
「河川の水はタダだ。漏れても実害がない」
「用水路の維持管理は農家組合で行っていただく必要がありますが、共有井戸でしたらご希望に添えます。一度、ご検討願えませんか」
「検討なんて無駄だ。共有井戸にするというなら用水路の修繕もセットだ! 公共事業のためにどうしてワシらがその皺寄せをくらわにゃならん!」
会長は手元の資料を乱暴にテーブルに叩きつけると、俺たちを背にして奥の間へと姿を消した。
突然の出来事に呆然とする俺の隣で、係長が黙って乱れた書類を片付けている。
既に何か次の手立てを模索しているのか、その横顔からは困惑した様子など微塵も感じられない。
奥の間からは、入れ替わりに奥さんらしき年配の女性が顔を出した。
「すみませんね、気が短いもので……。また、出直していただけませんか?」
「こちらこそお騒がせしてすみませんでした。また改めてお伺いします」
深々と頭を下げ、奥さんと和やかに世間話までしてみせる上司の横で、俺はモヤモヤとした不快な感情を払拭できず、形だけの相槌を繰り返すことしか出来なかった。
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