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第3話 足代
「橘、キャッチしようぜ」
藤井さんが使い古したグローブを片手に腕をまわしている。
6月のある晴れた日の朝、局の厚生会事業でソフトボール大会が開かれた。
土曜日の午前中とあって、前日の終電まで残業していた俺は欠伸が止まらない。
あれから農家組合との協議は難航を極めていた。
相手方はこちらの提案に難色を示すばかりで、一向に懐柔できていない。
仕事が進まない時というのは、必然と成果のない仕事ばかりが増える。
俺は大きく伸びをすると、グランドの端にしゃがむ藤井さんのミットへ投球した。
野球経験があって体力がある俺と藤井さんが、河川事業課チームのバッテリーを組むことになっている。
「お、調子いいな。寝不足が効いたか?」
係長がフェンスの向こうからこちらを見ていた。
白いTシャツに黒のハーフパンツとタイツを合わせているからか、鮮やかな檸檬色のランニングシューズが眩しく見える。
「最高に効いてます。係長もでしょ?」
「20代と一緒にすんなよ」
彼は苦笑しながらベンチに座ると、靴紐を結びながら隣に座っていた相川さんに声をかけた。
「一緖にキャッチボールしよっか?」
「え? あ、はい」
彼女は予想外のことに一瞬顔を紅潮させたが、すぐに嬉しそうに目尻を下げた。
正直こういう時、女の子とペアになると周囲から好奇の目を向けられがちだ。
だからみんな遠慮して距離を置くが、係長は敢えて孤立しがちな彼女に声をかけていた。
しばらくするとグランドには甲高く楽しそうな声が響き、男だらけの空間に華やぎが加わった。
「ストライク! バッターアウト!」
「橘ナイピー!」
「もう一球入れてこー!」
局のソフトボール大会では各課から1チーム編成でトーナメントが行われる。
今年の河川事業課は運が良いのか悪いのか、第一試合で去年の優勝チームである中土木事務所と対戦することになっていた。
時間に限りがあるため、ルール上5イニングで勝敗を決めることになっている。
現時点で4イニングが終了し、ここから最後の攻撃に入るところだった。
得点は河川事業課が8点、中土木事務所が9点と、まさかの接戦である。
一回戦で負けて帰るものだと思っていた矢先、二回戦進出の可能性が急浮上してきたため、応援している職員の熱気も昂まりを見せている。
しかも1番バッターの藤井さんがいきなりホームランを打ったので、2番バッターの俺は確実に出塁することだけを考えれば良かった。
「橘ー! アウトだけは無しだぞー!」
ベンチからの声援を受けてバッターボックスに入る。
ピッチャーの二度のボールをやり過ごし、直球勝負でスイングした。
ゴロがセカンド方向へと飛んでいく。
すぐにファーストへ駆け抜けたが、守備に猛烈なタッチアウトをされ、バランスを崩した俺は地面に身体を打ち付けた。
「バッターアウト!」
「悪い、大丈夫か?」
右足首にうねる様な痛みが走る。
鼻腔を砂埃が刺激し顔をしかめていると、副審が慌てた様子で駆け寄って来た。
「大丈夫ですか?!」
「足首捻ったみたいです……」
「そうですか……。では、本部へ申し出て手当てを受けてください」
様子を見に駆けつけてくれた秋山さんの肩を借り、なんとかベンチへと下がったが、捻った部位は熱をもって腫れてきていた。
「橘君、本部からシップと包帯借りてきた!」
塚田さんが手際よく応急措置を施し始める。
普段はさばさばしているのに、こういう時に垣間見える女らしさをギャップというんだろうか。
「ありがとうございます」
「このお礼はちゃんとしてもらうからね〜」
「橘、大丈夫か?! えらく派手にこけたなぁ」
係長も心配そうに様子を見にきた。
というより、塚田さんの処置を感心しながら観察しているといった感じだ。
「さすが塚っちゃん、手際がいいね」
「お褒めいただき光栄ですわ」
結局大健闘した試合はというと、俺の怪我で調子が崩れたのか、満塁ホームランのサヨナラ負けだった。
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