第3話 足代

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「今日はとんだ災難だったな。でも橘と藤井ちゃんのおかげでなかなかいい試合ができたよ」 「俺は何もしてませんよ。係長こそ打率良かったですよね。打順がまわってくる度にベンチも盛り上がってたし」  俺が戸塚駅近辺に住んでいると知り、同じ方面だった係長が荷物を持って帰ってくれることになった。  良いところを見せようとしたのに、最後に足を引っ張ってしまった自分がなさけない。  しかも係長にまで迷惑をかけている。 「お前らには敵わないって」  気落ちしている様子を察してか、彼は努めて明るい口調で答えた。  戸塚駅東口を出ると、古くからの桜の名所でもある柏尾川(かしおがわ)を渡り、大通りを道なりに南東へ進む。  駅から歩いて5、6分。  一歩裏通りに入ると閑静な住宅街が広がっていて、俺が住む築20年の2階建アパートが見えてきた。  周囲にはマンションやアパートが立ち並んでいるが、休日の昼間でも人通りはまばらだ。 「戸塚って駅前は栄えてるけど、周辺部は意外と住環境良いんだな」 「そうなんですよ。住みやすくて気に入ってます」  係長は、2階の角部屋まで先に荷物を運ぶと、片足を庇いながら階段を登っていた俺に肩を貸してくれた。 「すみません。迷惑かけて」 「気にすんなって」  くっきりとした形の良い二重瞼が笑うと、目尻が垂れて優しい雰囲気になる。 「じゃ、荷物はここに置いとくからな。あんま痛むようだったらちゃんと病院いけよ?」 「助かりました。ありがとうございました」  玄関先で帰ろうとするその背中に、俺は何かお返しできることはないだろうかと咄嗟に思案した。 「あの、よかったら珈琲でも飲んでいきませんか」 「え……ああ、足代か?」 「まぁ、そんなもんです」  突然の誘いに相手は一瞬戸惑っていたが、すぐに白い歯を見せて笑った。  歯並びがとても綺麗だ。  美形故に真面目な表情をしている時は冷たい印象を受けるが、こうやって破顔すると柔らかな空気を纏い、より一層女性的な美しさを湛えている。    なんだか変な緊張感に包まれながら彼を部屋に通すと、俺は冷凍庫からフリーザーバッグに入れた珈琲豆を取り出し、ミルに二杯分投入してハンドルを回した。  ごりごりと鈍い低音が掌に伝わり、それと共に砕けた豆の香りが鼻孔をくすぐる。  お湯が沸くのを待っている間、係長は遠慮がちに室内を見渡しながらソファに腰を掛けた。 「お洒落な部屋だな。橘って、植物が好きなのか?」  ソファの隣に置いてある大型の観葉植物の葉に触れながら、感心したように目を丸めている。 「植物って癒されません? それ、エバーフレッシュっていうんですけど、夜になると葉を閉じて眠るんですよ」  マグにドリップされた珈琲が注がれると、部屋中に香ばしい匂いが充満し、深く息を吸い込んだ。  すぐに係長が2人分のマグカップをテーブルに運んでくれる。  紳士的な客だ。  促されるままにソファに腰を下ろすと、ようやく一息つくことができた。 「橘って、マメだよな」 「何がですか」 「こういうのとか」  ソーサーに乗せたチョコレートを指差している。 「あ、係長って甘いもの苦手でしたっけ? すみません。確認もせず」 「いや、大好き。女子力高いなと思っただけ」 「それ、褒めてます?」 「褒めてる褒めてる」  彼は嬉しそうに笑うと、息を吹きかけながら珈琲を口に含んだ。 「うん、うまい! 酸味が少なくて飲みやすい。豆から挽くなんてこだわってんだな」 「その方が美味しいからですよ。あの……そういえば、例の河川管理者協議会の件なんですけど、どうして相川さん辞退したんですか?」  それは先週のことだった。  突然、彼女の都合が悪くなったからと、前回のジャンケン勝負で二番手だった俺に京都行きの話が舞い込んできていた。 「ああ、あの後相川さんから相談があって、やっぱり泊まりで行くのはちょっと難しいですって言われてさ。あの感じだと、彼氏に文句でも言われたんじゃないかな。本人不服そうに話してたし」  チョコレートを口に含みながら、思い出したように苦笑する。 「別に日帰りで行けば問題ないのに、そもそも泊まり前提で話してくるお前等おかしくないか?」 「いや、せっかく京都に行くのに日帰りで帰るなんて勿体ないじゃないですか。係長もたまには息抜きしたいでしょ」 「息抜きねぇ……」  彼は息を吐いて窓の向こうを見つめると、黙って二口目の珈琲を啜った。
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