第18話 理想の上司

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 桜の花がちらほらと開花し始めた3月末のことだった。  その日は人事異動の内示日だった。  正式には4月1日が異動日だが、引き継ぎ資料の作成や荷物の整理が必要になるため、人事異動の対象者には1週間前に通知される。  通常、補職者のポストは2年から3年で異動となるため、河川事業課3年目の俺ももれなく満期で異動対象者だった。    異動になる者は1人ずつ課長に呼び出され、新たな行き先を通知されるが、そのお祭り行事が始まると、皆一様に仕事が手につかなくなる。  そしてそれは昼前に始まった。  給与体系の高い者から順に呼ばれるのだが、今回最初に名前を呼ばれたのが俺だった。  満期を迎えていたから驚く者はいないだろうが、自分としては本当に異動させてもらえるなんて思っていなかった。  西山家とはまだ用買契約まで漕ぎ着けていない。  契約締結に至るまでは残留させられることを想定していた。  半信半疑のまま課長席の隣に置かれた丸椅子に座らされると、淡々と行き先を告げられた。  次の職場は施設課だった。  バリアフリー等担当係長を担うことになる。  また事業課の工事担当だった。  できれば管理畑が良かったが、気力と体力のあるうちは忙しい職場に回されるのが役所の常だ。  席に戻ると、係のみんなが目の色を変えて俺を待ち構えていた。 「どこに異動になったんですか??」 「施設課。バリフリ担当って言われた」 「バリフリかー。あそこ残業時間凄いって聞いたことありますよ」  ぼんやりしているうちに、藤井が課長に呼ばれた。  藤井も異動か。  塚田さんは5月中旬で産休に入る。 「うちの係、やばくないスか。係長とベテランの藤井さんが異動で、塚田さんが産休。俺ら若手しか残らないじゃないですか」  秋山が深刻そうに眉を寄せた。  橘はいつもの仏頂面だが、相川さんは不安そうな顔をしている。 「俺たちのこと全然考えてくれてないじゃないですか。こんな状態でどうやって来年度やっていくんですか……」  秋山の不平が止まらない。 「俺の後任は橋梁課の内海係長だから大丈夫だ。あの人は係員時代に河川事業課にいた経験があるから」  それを聞いて彼の不満も少しは収まった。  今日から引継ぎ資料を作成しなければならない。   「ただいま」  寝室でスーツを脱ぐと、スウェットに着替えてリビングへと移動する。  時計は夜の9時を回ったところだった。 「お帰り。今日ハンバーグにしたけど食べる?」 「食べる。お腹すいたー」  奴との生活も3ヶ月が過ぎようとしていた。  正直、同棲するなんて勢いで認めてしまったけど、最初は後悔もした。  2人で住んだ経験がない俺は、家に自分以外の誰かがいる環境に慣れなかったし、休日は例の体たらくだ。  自分が何もしたくないという欲求を優先したが為に、橘は同棲相手というより家政婦みたいな役回りを担うことになってしまった。  けれど本人はそれが一緒に住む為の条件だからと嫌な顔一つせず家事をこなしてくれている。  一体奴の中で俺の何がそうさせるのか全く理解に苦しむが、変わり者も世の中にはいるものだと、その存在を今は有難く受け入れている。 「はい。今日もお仕事お疲れ様」  平皿にはメインのハンバーグと、生野菜、それからポテトサラダが付いている。  そこに豆腐の味噌汁が追加された。 「うまそ〜! いただきます」  最近では帰りの電車に揺られながら、今日の晩飯は何かなと考えることが日課になっていた。  世の既婚者も日々こんな生活を送っているんだろうか。  ハンバーグを箸で割ると、じゅわっと肉汁が溢れ出した。 「これって、もしかして俺のために焼いてくれた?」 「温め直すより焼きたての方が美味しいから」  わざわざ俺なんかのために……。  橘はやっぱり奇特な奴だった。  以前なら帰宅するなりシャワーを浴びて、飯も食わずにベッドに直行する日もあった。  それが今では遠い昔のことのようだ。 「異動、おめでとう」  お茶の入ったコップをテーブルに2つ置くと、奴は少し名残惜しそうに目を細めた。 「まさか、ほんとに異動させてもらえるなんて思ってなかった……」 「よかったんじゃない? これで携帯番号も変えられるし」 「……もう、変えていいよな?」 「工事中の西山家の守りは次の新しい係長がやるし、あの女からもあれから連絡ないんだろ? 番号変えても困る人はいない」 「……わかった。年度が明けたら変える」  俺の返事に安心したのか、奴は静かに微笑した。
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