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第4話 苦情
「湯浅係長、ちょっといい?」
事務の澤田係長が俺を呼んでいる。
「これ、藤井さんの決裁なんだけど、総務の松山さんが決裁ラインから抜けてるから入れてもらえません?」
「あ、すみません、気が付かなくて」
「ちゃんとチェックしてくださいね?」
彼女はあからさまな作り笑いを顔に貼り付けると、力強く書類を突き返してきた。
澤田係長は45歳の女性職員で、職場恋愛の末に結婚したがその後まもなく離婚し、最近は高級マンションを購入したなんて噂が流れている。
普段機嫌のいい時には猫撫で声だが、基本的な性格は割と短気なのか、他人や仕事の愚痴をこぼす時は早口でまくしたてるように話すので正直怖い。
ふと視線を感じ、 顔を上げると向かいのデスクに座っている塚田さんと目が合った。
──きょうは、ごきげんですね。
ロパクでそう言っているのが分かる。
俺は大きく頷くと、手元にあった書類を彼女に手渡した。
「摘録ありがと。中身確認したんだけど数点修正してもらえるかな?」
塚田さんはその指示に気持ち良く応えてくれた。
昼休みのチャイムが鳴り、注文していた弁当に箸をいれていると、室内に一本の電話が鳴り響いた。
秋山が応対したが、その会話からするとどうやら市民からの苦情らしい。
彼は電話を切ると顔を上げた。
「係長、小笹川の工事の件で地元の西山さんから苦情です。振動がするって」
小笹川は秋山の担当河川だ。
「いつから?」
「今日から仮設工事始めたんでその影響だと思います。丁度昼から現場に行く予定だったんで確認してきます」
「俺も行くよ」
小笹川は、市街地を縫うように流れており、家屋が近接しているため工事の苦情が絶えない河川だ。
現場に着くと、業者が土留め用の鋼材を地中へ打ち込んでいるところだった。
電話の相手は現場のすぐ真横に住んでいる。
振動で家屋に影響を与える可能性があったため、事前に家屋調査を実施していた。
「西山さんか──」
インターホンを鳴らすと、俺達は無言で顔を見合わせた。
小笹川の河川改修工事は、雨水の一時貯留のための遊水池を新たに整備する必要があり、その用地買収の相手方が西山家だった。
西山家は大地主の家系で、奥さんがその血筋を引いている。
父親は引退したが元国会議員。
旦那さんは婿入りの市会議員だ。
西山市議は、議会では度々市政を厳しく批判することから、内部の役職付からは腫れ物に触れるように慎重な扱いを受けている。
遊水池として必要な広大地の大部分を一族が所有しているため、何年も前から用地交渉を続けているが、事業の必要性について理解が得られず、未だ硬直状態が続いていた。
「どうしてこんなに振動が起こるの?! 施工が乱暴なんじゃない?! 家が壊れでもしたら貴方達どう責任とってくれるの?!」
苦情の主である奥さんは、近所に声が漏れないよう玄関扉を閉めると興奮して喚き立てた。
「ご迷惑をおかけしまして大変申し訳ありません。現在は護岸をつくるための土留め板を設置しているところですが、地中の玉石が影響して局所的に振動を与えてしまったんだと考えられます」
「家に亀裂が入りでもしたらどうしてくれるのよ!?」
「ご心配はごもっともです。今後はより一層丁寧に作業を進めたいと考えておりますが、着工前に家屋調査に入らせていただいておりますので、工事完成後、再度家屋の状態を確認させてください」
出来るだけゆっくりと落ち着いて話すことで相手のトーンダウンを図る。
説明を尽くして頭を下げると、彼女は渋々ながら理解を示してくれた。
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