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第5話 侮辱
時計は朝の8時50分を指している。
9時に新横浜駅の改札口前で係長と待ち合わせだ。
平日とあって人々が慌ただしく往来する中、俺はスーツ姿には少し不釣合いな大きめのリュックを背負って呑気に缶珈琲なんか飲んでいる。
世間とは時間の流れが逆行しているみたいで何だか変な気分だ。
「橘! 悪い、待たせたな!」
その声に顔を上げると、正面から係長が走ってくるのが見えた。
濃紺のスーツにグレーとホワイトのストライプタイ。
生地には特有の艶感があり、俺が着ているようなセール品の安物ではなさそうだ。
「大丈夫ですよ。まだ時間もありますし」
9時19分発の新幹線のぞみ新大阪行きに乗ると、京都駅への到着は11時17分。
それから昼飯を食べ、13時半から始まる全国河川管理者協議会に出席する。
スーツ姿の男達で埋め尽くされた車内に腰をおろすと、係長は窓際の席で欠伸をしながら缶珈琲を開けている。
「今日は珍しく寝坊ですか?」
「ん? 未遂未遂。でも危ないとこだった」
目の下にはうっすらとクマができている。
毎日の残業続きで疲れが溜まっているようだ。
「寝てていいですよ。着いたら起こすんで」
「ありがと橘、俺の部下は優秀だな〜」
「とんでもない。尊敬する湯浅係長と遠征できるなんて感無量です」
「持ち上げても何もでないからな?」
「ホテル代くらいはでるかなって」
「お前な」
京都駅に着くと早速地下街へと向かった。
平日の昼間だというのに家族連れの客が多く、どこも行列ができている。
俺たちは回転の早いラーメン屋に入ると、会話もそこそこに空腹を満たした。
「観光客が多いですね」
「祇園祭のシーズンだからだろ。今日が宵山じゃなかったかな」
「そうなんですね。何もこんな時期に会議なんてしなくても……」
「全国から関係者が集まるから敢えて観光できるよう配慮したんじゃないか?」
京都駅近くに予約していたビジネスホテルにチェックインし荷物を預けると、地下鉄で会場へと向かう。
乗り換えの方法を調べていると、係長が先に歩き出した。
「行き方分かるんですか?」
素朴な質問に、彼はシャツの襟足を正しながらこちらを見ている。
「……地元なんだ。一応」
俺は思わず細い目を見開いた。
「何ですかそれ、そんな話聞いてないですよ」
「ごめん、言いそびれてた」
「じゃあ観光とか実はどうでもよかったんじゃないですか」
「怒るなよ、道案内はしてやるからさ」
地下鉄で京都市役所前駅まで向かうと、長いエスカレーターの先に本庁舎が見えた。
古い建物だが、重厚感のある歴史的な建築物のようだ。
会場に着いた頃には13時をまわっていた。
長テーブルがロの字に配置され、各テーブルの上には都道府県政令市の名前が書かれたプラカードが置かれてある。
横浜市は神奈川県の隣の席だった。
「お、今年は湯浅係長ですか」
先に席についていた神奈川県庁の職員の顔が綻ぶ。
「お疲れ様です。今日はお一人ですか?」
係長もにこやかにその雑談に応じた。
定刻になると、事務局である京都市の進行で会議が始まった。
各自治体が持ち寄った議題をテーマに、それぞれが見解を示し合う。
その場には国土交通省の職員も同席しており、自治体によって意見が分かれたり、結論が得られない難しい課題について国の見解を示してくれる。
スムーズな進行のおかげで予定時刻の16時には無事会議が終了した。
「それでは、これから河川の現場見学をはさみながら懇親会の会場へ向かいたいと思います。本市の担当者が先導いたしますので、お荷物はお持ちになって市役所玄関口でお待ちください」
通常、全国会議や各ブロック会議の後は現場見学と懇親会がつきものである。
その名のとおり各自治体間の親睦を深め、ざっくばらんな情報交換をする場なのだが、俺は付き合いの飲み会自体がそもそも苦手なので憂鬱でしかなかった。
河川工事の現場説明を聞きながら高瀬川沿いを歩くと、やがて狭くて細い風情のある通りに出た。
「ここが先斗町通です。懇親会の会場はすぐそこですので」
通りに面する飲食店はどこも町家で趣のある雰囲気を醸し出している。
有名観光地なだけに外国人観光客が多い。
間もなく、一軒の店から着物姿の女将さんらしき人が表で頭を下げているのが見えた。
間口の広い、いかにも歴史を感じさせる老舗料亭だった。
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