憧蝶

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憧蝶

 どこか、遠い世界のこと。  鬱蒼とした木々に囲まれる小高い丘の上。とても古い豪奢な塔が立っていた。聳える塔の壁面に、窓は1枚も見当たらない。  蔦に覆われる塔の中では、年若い少女が暮らしていた。  幼い頃から、少女は塔に幽閉されていた。しかし少女には、己が閉じ込められているという認識は露も無かった。少女の世界は産まれたときから塔だけで、それ以外の何も知らなかった。  両親は何年も前に亡くなっていた。少女が11の年だった。それからずっと、少女は誰にも会っていなかった。  塔の中には外界を語る本以外のあらゆる物が揃えられていた。そして両親は、生きていた頃に塔の外について何も語らなかった。だから少女は、両親を喪った寂しさは感じても、外への憧れなど抱くはずがなかった。  塔の地下には両親の棺があった。時折少女は地下に降り、棺に凭れかかって祈りを捧げた。もう独りには慣れていたが、少し両親が恋しかった。  少女は次の満月に19を迎える予定だった。唯一設けられた天窓から見える月だけが、少女に時の流れを伝えていた。  そんなある夜更け、天窓から一匹の揚羽蝶が飛び込んできた。蝶は月明かりに照らされて、鱗粉をきらきらと輝かせた。そしてくるりと宙返りし、美しい妖精へと姿を変えた。  妖精は少女をつついて起こすと、にっこりと微笑みかける。驚く少女の頬が、高揚で紅く染まった。  2人は夜通し語り合い、美しい幻想が塔の中に満ち満ちた。煌めく夜空、爆ぜる篝火、真昼の陽光、ざわめく街道。妖精の魔法は素晴らしかった。  少女は今までの生活について話した。母から貰うはずだった指輪。父から教わっていた魔法。よく作る料理。得意な裁縫。  妖精は外の世界について話した。広がる草原。飛び回る鳥や蝶。仲間と旅した大海原。  話は尽きることなく湧き続け、あっという間に2人は親しくなった。嘗てないほど時計の針が早足だった。  天窓から覗く空が淡い紫紺色に染まる頃、妖精は少女に別れを告げた。名残を惜しむ言葉に首を振り、妖精は哀しげに笑う。  ――さようなら、プリンセス。  そう言って少女の手に口づけると、蝶に戻り飛び去った。  広い世界を学んだ少女は、それからは外に出たくて仕方がなくなった。それまでの世界が突然に萎びたようだった。  あれから一度も、揚羽蝶は訪れない。だが初めて知った輝きは色褪せることがなかった。憧れは遠くへ行こうとしなかった。  光に出逢ってしまった少女は、別れた夜からずっと蝶を待っている。  いつまでもいつまでも、遥か上方の天窓を仰ぎながら。鱗粉の妖しい輝きを思い出す。
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