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38.6℃
解熱剤を使える体温に達して、痛む喉に淡を絡ませながら、うん、うん、と咳を吐き出す。絡んだ淡はしつこく喉にへばりつき、そこから離れようとしない。
これ以上やったら、喉から血が出そうだと、それと格闘するのを諦めて、昨夜から寝続けている寝床を離れる。
そこは、体温と汗で湿っぽくて、シーツを替えたいところだけれど、今の状態では無理だと諦める。
もう少し、体が軽くなれば、それもできるだろうと、痛む太ももにうんざりしながら、昨日、処方してもらった薬を取りに、キッチンへ向かう。
感染者とすれ違っただけで、もらう可能性があると医者は言っていたけど、本当にどこでもらったんだか。
頭がくらくらするからと、休憩室で休んでいると、パートさんが体温計を持ってきて、熱を測ったら微熱で、そのまま二重にマスクをした店長に病院へ連れて行かれたのが昨日の夕方。
「陽性ですね」
医者に電話でそう言われて、そのまま店長に自宅に送られて、これから十日間の療養期間だという。さっき保健所からのメッセージがスマホに届いた。
なにが起きたんだか。もらってきた先がわからないのだから、頭と体が付いて行けない。喉はヒリヒリとしてきて、熱は上がり、咳は時折、ケホンと口から飛び出る。
今年の春から、一人暮らしを始めたこのアパートに、丸岡はちょくちょくやって来るようになっていたけれど、この一週間は公演の準備で忙しく、来ていなかったのが幸いだった。
濃厚接触でもしていたら、彼の大事な舞台に穴を開けてしまうことになっていた。それに、一人でも疑いがあったら、公演は中止…なんてことになったら、責任は重い。
「はるきや」にも迷惑をかけてしまった。毎朝、体温は測っていたんだけど、昼から出てしまった熱には気付けなかった。
申し訳ないと謝る俺に、店長は謝ることないでしょうと平気な顔をしていたけれど、どこで、どうもらってこようと結局は「申し訳ない」という言葉が出て来てしまうのだから仕方がない。
ブブ…とスマホが震え、実家の母親から「アパートの前に食料を置く」とのメッセージを読んでいると、足音が聞こえ、ドン…足音が去り、ドン…また、最後に、ズズズ…と音がして、コンコンコンと扉が叩かれる。
「大丈夫?熱、高くない?苦しくない?」
控えめに聞く母に、扉を開けて、姿を見せてあげればいいんだろうけれど、なんせ「すれ違った」だけでも感染すると噂のウィルスなのだ、それはできない。
「大丈夫。薬飲んで、熱下がったから、荷物、行ったら入れるからさ、行っちゃっていいよ」
「良かったぁ、おかしかったらすぐに電話してよ」
安堵の声を聞いて、少しの嘘も必要だよなと、まずは薬を飲んでからテーブルの椅子で、目をつぶり、動けるタイミングを図る。
せーので、立ち上がって、扉を開けて、段ボールを回収して、冷蔵品が無いかを見て、それを冷蔵庫に入れたら、ベッドに倒れよう。そう算段して、深呼吸をしてから立ち上がる。
玄関の前に置かれた段ボールは、三箱。しかもその中に満杯に食料が入っている。一番上の段ボールの半分は、冷凍のアイスクリーム。
ああ…もう…ありがたいけど…と、それを部屋に入れて、冷凍庫にアイスを放り込むけれど、きっちりと入れていかないと収まらない量であることに気付き、また詰め直す。最後の一個はどうしても入らないので、すぐに食べようとテーブルに出しておく。
お次は、冷蔵食品。やきそば、卵、牛乳、ヨーグルト…それを小さな冷蔵スペースに詰めていく。単身者用の冷蔵庫の大きさをわかっていない量だけど、これが母親のものさしなんだろうと思うと納得した。
療養が終わっても、丸岡が来たら食べさせてあげられそうな量だ。
最後の段ボールは乾物なのに安心して、そのままにして、ベッドに倒れ込む。丸岡にも連絡をしなくてはいけない。
「陽性になりました」
なんて連絡ではない。
「明後日の公演には行けなくなりました。ごめんなさい。チケットを誰かに譲りたいけれどそれも叶いません。大事な座席を空けてしまい、申し訳ない」
俺は枕元に置いたチケットを手にして、それの日付を見た。カレンダーを見て、やっぱり明後日で間違いないと、さっきから数度、繰り返している確認を終えると、チケットを元の位置に戻した。
人に話したら「しょうがない」と言われるだろうけれど、俺にはどうしても譲れないことがある。それは、舞台のチケットを取っておいて、それに行けなくなった時。誰にも譲れずに空席を作ってしまうことだ。
この時代、むしろ席を空けて公演しているくらいだ、いいではないか、そうか、お金がもったいないのかと思われるかもしれない。
そうじゃない。
舞台の一席を自分で取ったなら、俺はそれを観る責任がある。こんな重たい観客、公演する側はいらないだろうけど。
俺にはどうしても、そこは譲れない。丸岡がここに寄る時間があれば、これを渡して、誰かに譲ってもらえばいいのかもしれないが。
すれ違っても感染するこのウィルス。
チケットに付いていて、丸岡にうつしでもしたら…。
なんていうジレンマだ。俺はベッドの上で、ハムレットのように、拳を握って体をくの字に曲げて悶える。
仕事に行けなくても構わない。いつだって「はるきや」は駅前にある。だが、芝居はこの公演期間を逃したら、ほぼ確実に、二度と観れられない。
しかも、今回は丸岡が出るんだ。
ちょっとだけだけどね。と言っていたけど、それだけでも構わない。
舞台に立つ、大好きな丸岡が観たい。見逃すなんて、納得できない。
俺は今度は頭を抱えて、くっそう…と悶えた。頭まで痛くなってきた…そうしている間に眠ってしまった。
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