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「すみません、ここって付けは利きますか?」
行きつけのバーのいつもの席でグラスを揺らしていた安曇碧は、焦ったような男の声を聞きつけて、伏せていた顔を上げた。すぐさま飛び込んできたペンダントライトの明るさに、目の奥がじくりと痛む。
「付けはお断りしてるの。常連さんならともかく、あなた一見さんよね?」
狭いカウンターに窮屈そうに収まっているオーナー兼バーテンダーの勇ママが、品を作って悩ましげな溜め息をついた。
言動こそ女性らしいが、体にフィットしたTシャツから覗く腕は、レスラーばりに逞しい。安曇の脹脛を軽く上回っていそうだ。
「困ったな……。実は財布を落としたみたいで今手持ちがないんです。約束してる友人とは連絡がつかないし。スマホ決済が可能ならそれでお願いしたいんですけど」
「うちは現金かクレジットカードだけよ。せめて何か身分を証明できるものはある?」
「カードも免許証も財布の中なんです」
「そう。それじゃどうしようもないわねえ」
カウンター越しに交わされる会話を聞くともなく聞きながら、安曇はグラスを置いて、そう広くない店内に視線を巡らせる。
ここ「止まり木」はこの界隈では人気のバーだが、今日は月曜日の夜、しかもあいにくの雨とあって、客の入りはいまいちだった。カウンター席に安曇以外の客はなく、ボックス席にはカップルと思しき二人連れが二組のみ。好みの一人客もいなければ、安曇のような人待ち風の客もいない。
(せっかく来たのに今日はハズレだな……)
「明日でよければ支払いに来ますから」
「悪いけどうちも商売だからね。誰かに連絡つけて借りるなりなんなりしてもらわないと」
すぐ隣では、勇ママと一見客の間でまだ会話が続けられていた。
夜の店で客が支払いを渋るのは珍しいことじゃない。財布を落としたとか言っているが、どうせこの客も当てが外れて金を支払うのが惜しくなっただけに違いない。そしてやり手のママは、客にどれだけごねられても毎回キッチリ代金を徴収する。
(まあでも、今回の客は結構粘るな)
声や口調からしておそらく年下だろう。カウンターについた手指は長く、清潔な感じがした。低いのに、どこか甘く響く声もいい。
(ママが引くわけないんだから、粘ったところで時間の無駄だ)
だがそんな安曇の予想に反して、勇ママの口調が徐々に柔らかなものになった。テーブルに頬杖をつき、立てた小指を齧りながら、甘ったるい声を出す。
「仕方ないわね。じゃあ、体で払ってく?」
これは予想外の展開だ。この店に通うようになって約十年、勇ママが客を口説く場面に遭遇したのは初めてだった。
さして気にもならなかった一見客に、俄然興味がわく。顔を見たいところだが、そんなことをすれば聞き耳を立てていたことがばれてしまう。安曇は湧き上がる衝動を、グッとこらえた。
「体って肉体労働? そんなことでいいの?」
「言っておくけどアタシは甘くないわよ。足腰立たなくなっても責任は取れないから」
「大丈夫だと思う。体力には自信あるんで」
思いがけず話がまとまりそうになり、安曇はとうとう好奇心が抑えられなくなった。
汗の浮いたグラスを握りしめ、そっと隣を仰ぎ見る。すると安曇の動きにつられたのか、客の男の視線が不意にこちらに流れてきた。
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