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「あのさ、安曇さん。この後――」
耳に唇を寄せた瞬間、カウンター奥にある店の電話がジリリンと鳴った。映画でしか見たことがない、レトロな黒電話だ。
「お電話ありがとうございます。バー止まり木です。……あら佐々木さん、お久しぶり」
その時、安曇の体がぴくりと波打った。
「安曇ちゃんね、それが忙しいのかトンとお見限りなのよ。どこかで見かけたらたまには顔見せに来いって言ってやってちょうだい」
客らしき男に平然と嘘をついた勇ママを、吉村が訝しげに見つめている。安曇はといえば、不自然なほど表情がなかった。
「安曇さん?」
緩く握った手がするりと引き抜かれる。安曇はこちらを一瞥もせず、足元に置いていたバッグを手にして立ち上がった。
「じゃあ俺はそろそろ失礼しようかな。つき合ってくれたお礼に奢るよ」
「あら、お代はいいわよ。この間たくさんいただいちゃったから差し引きしておくわ。疲れてるなら帰りはタクシーを使いなさいね」
「ありがとう。愛してるよ、ママ」
戸惑う須永を尻目に、安曇とママはサクサクと話を進めていく。「じゃあまた」とコートを翻して店を出ていく後姿を、須永は呆然と見つめることしかできなかった。
「あーあ、帰っちゃった。もっといろいろ聞きたかったのに。つーかお前、安曇さんにお金返すんじゃなかったの?」
吉村から指摘されて、ようやく我に返る。須永はコートとバッグを引っ掴み、慌てて席を立った。
「すみません、ごちそうさまでした」
「せめて連絡先くらいはゲットしてこいよー」
おせっかいな友人の声を背中で聞きながら、バタバタと店を飛び出す。細い路地を抜けて大通りに出たところで、タクシー待ちをしている痩身を見つけた。
「あず――、碧さん!」
名前を呼ぶと、安曇が弾かれたように振り返った。大股で通りを横切り、男との距離を詰める。
「待ってよ、俺まだ借りたお金返してない」
「律儀だなあ。お金のことは気にしないでいいって言っただろう? あれはママの奢りみたいなものだし、その分店で使ってあげて」
「なんでここでママの名前が出てくるんだよ……って、いやそうじゃなくて、お金なんてただの口実で、ほんとは碧さんにもう一度会いたかっただけなんだ」
安曇が意外そうに目を見開く。須永自身、自分の言葉に驚いていた。
まずは借りたものを返して、その後ゆっくり自身を見つめ直すはずが、焦るあまりいくつか工程をすっ飛ばしてしまっている。
安曇の前だと妙に調子が狂う。理由はわからないけれど、とにかくこのまま彼を帰したくなかった。
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