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 安曇が目を瞠り、ごくりと息を呑む。その反応だけで、自分の予想が間違っていなかったのだとわかった。 「……前に一度だけ寝た。何度も電話がかかってきてたけど、今は会ってない。嘘じゃないよ」 「わかってる。答えてくれてありがとう」  彼が佐々木という男と寝たという事実より、一度だけという言葉が気にかかった。  初めて出合った日、安曇は須永をホテルに誘った。あの時彼と寝ていたら、自分たちの関係はどうなっていたのだろう。安曇は須永のことも一度だけ寝た相手だと誰かに話していたのだろうか。  須永は姿勢を正すと、海の方を見ている安曇にそっと身を寄せた。  芝生の上に置かれた白い指を握りたい。強く握って、少しはこっちも見てほしいと子供みたいに取り縋りたかった。 (そんなことをしたら、また吉村に嫌味言われるんだろうな)  ひっそりと嘆息して、缶ビールを飲み干す。すっかり炭酸の抜けたビールは、いつもよりも苦く感じられた。  芝生の上でまったり過ごした後、日が落ちきる前に駅前に戻り、何軒かショップを見て回った。たくさん歩いて小腹が空くと、チェーン店の飲み屋でおでんを食べ、体の芯までポカポカになって店を出る。 「この後どうする? まだ早いし、東京に戻って勇ママに会いに行こうか?」 「それもいいけど……君さえよければ、行きたいところがあるんだ」  もちろん須永に断る理由はない。  電車とバスと乗り継いで辿り着いたのは、高台にある、ごくありふれた公園だった。 「ここ?」 「うん。この場所からが一番よく見えるんだ」  そう言うと、安曇は公園を通り抜け、突き当りにあるフェンスに指をかけた。暗闇の中を、小さな光がいくつも浮き上がって見える。 「工場? ああ、京浜工場地帯か。そういや隠れた夜景スポットだって人気あるんだっけ」 「昔父親だった男が造船所で働いてたんだ。塗装工で、船の塗装を任されてたらしいよ」  言い回しに違和感を覚えて、須永は安曇の顔を覗き込んだ。露骨な視線を気にも留めず、安曇は暗闇に浮かぶ明かりを見つめている。 「小さい頃、安曇さんはこうやってお父さんの帰りを待ってたんだ?」  何気なく問うと、固く引き結ばれた安曇の唇が、歪な弧を描いた。 「まさか。事故でも起こらないかなと思って眺めてたんだよ。子供って残酷だよね。渉くんの言うように父親の帰りを待ちわびてる子供や奥さんがいるかもしれないのに、当時の俺はそんなこと考えもしなかった」  安曇の目は、ここではない別のどこかを見ていた。黒目がちな瞳に、砕けた星みたいな明かりが映り込んでいる。 「子供の頃は純粋に信じてた。父さんはあそこで一生懸命働いてる。だから家に帰って来れなくても仕方がないって。だけど中学生にもなると嫌でもおかしいって気づく」 「仕事以外に帰れない理由が何かあったの?」 「外につき合ってる相手がいたんだ。それでも作業のできない雨の日だけは、あの男が家に帰ってくる。だから母さんは雨が降るのをずっと待ってた。……今でも雨の日にはあの頃のことを思い出す。もう父親の顔も思い出せないのに、おかしいよね」  安曇がこちらを振り向き、唇だけで笑う。ようやく彼と目が合ったことにホッとした。 「お母さんは今どうしてるの?」 「義父と春日部のでっかい一軒家で呑気に暮らしてるよ。俺が大学生の時に再婚したんだ。昔は儚げな美人だったのに、今じゃ見る影もない」  安曇はふふっと笑い、フェンスに額を押しつけた。前髪が持ち上がり、額が露になると、いつもよりずっと幼く見えた。 「じゃあ碧さんはお母さん似なんだね」 「どうだろう? でもあんな風にぷよぷよになるのは嫌だな」  今度の笑顔は須永の知る安曇のものだ。薄く開いた唇から、白い息が漏れる。 「渉くん?」  白い手をフェンスごと手のひらで覆い、冷えた指に自身の指を絡める。  細いけれど、間違いなく男の手だ。だけどこれまでつき合ったどんな女の子よりも、今の安曇は頼りなく見えた。 「本当は碧さんも待ってたんでしょ? 雨の日にお父さんが帰って来るのを」  昼間の公園で、安曇は叶わなかった過去の光景を見ていたに違いない。睦まじい両親の前で、目いっぱいはしゃぐ幼い自分を。  事故が起きればいいと願ったなんて嘘だ。そうじゃなければ、一日の終わりにここに来たいなんて言うはずがない。 「今日、すごく楽しかった。誘ってくれてありがとう」 「うん……」  安曇が小さく頷いて、マフラーに口元を埋める。赤く色づいた耳先がたまらなく愛しかった。
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