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「やだー、雨? お気に入りのブーツで来たのに濡れちゃうじゃない」  窓枠に肘をつき、ぼんやりと外を眺めていた須永は、すぐ近くから聞こえてきた声に意識を引き戻された。隣には吉村がいたはずなのに、いつの間にか名前も知らない女子と入れ替わっている。 「あれ? 吉村は?」 「あっちの席で盛り上がってるよ。でも時間的にもそろそろお開きかもね」  吉村にせがまれてゼミ仲間との忘年会に参加したものの、須永は終始上の空だった。正確には、安曇と横浜に出かけた日からずっと、彼のことばかり考えている。  遠くを見つめる目。赤らんだ耳先。絡めた指は少し震えていた。 (碧さん、もう家に帰ってるかな。雨に気づいてなきゃいいんだけど)  安曇の子供の頃の話を聞いた後では、もう能天気に雨の日が待ち遠しいなんて思えない。それよりも、彼が寂しい思いをしていなければいいと思う。 「あ、出るみたい。ほら、立って須永くん」  腕を引っ張り上げられ、のろのろと立ち上がる。結局ほとんど飲み食いできなかった。  値段の割に味がいいと評判のこの店は、今度行ってみようと安曇と話していた店だった。炉端焼きデビューだとうれしそうにしていた姿を思い出し、なぜだか胸がジクジクした。  外はまだ雨がぱらついていた。気温もぐっと下がっている。須永はジャケットの前を閉めると、肩をすくめて仲間の後に続いた。 「二次会カラオケだって。須永くんも行くよね?」 「せっかくだけど、俺はやめておくよ。小雨のうちに家に帰りたいし」 「えー? そんなこと言わないで行こうよ。須永くんがいないとつまらないじゃない」  須永の腕にぶら下がり、唇を尖らせて言う。  手入れの行き届いた細い指。いい匂いのする柔らかな体。顔も充分かわいいと思う。きっと以前の須永なら、告白されればつき合っていただろう。だけど今は微塵も魅力を感じなかった。ただ「違う」と思うだけだ。 (違う……? いや、そうじゃない。碧さんだけが特別なんだ)  思えば出会いからして、安曇は特別だった。同性に欲情したのも初めてなら、自分から告白めいた言葉を口にしたのも彼が初めてだ。  自分の行動は全て彼への思いを示していたのに、今頃本当の気持ちに気づくなんて、鈍いにもほどがある。 「おい、須永。お前この後どうすんの? みんなはカラオケ行くっつってるけど」  遅れを取った須永を振り返り、吉村が大声で言う。大半は既にカラオケ店に向かった後らしく、見知った顔は数人しかいない。 「俺はいいよ。週末だからってあんまり破目外しすぎるなよ。他の客に迷惑だからな」 「わかってるって。真面目か。それじゃ野宮さん、一緒に行こっか。女の子も結構残ってるから心配いらないよ」 「ありがと。でも私も今回は遠慮しようかな」  さっきまで一緒に行こうとしつこく誘ってきたくせに、野宮はあっさりと意見を翻した。横目で吉村を見やると、呆れたような目でこっちを見ている。 (いや、俺はなんにもしてないから! 名前も今知ったぐらいだし)  そう視線で訴えるも、吉村はきれいにそれを無視した。 「了解。みんなには俺から伝えとく。遅いから気をつけて帰ってね。じゃあな、須永」 「……ああ。また」  意味深な視線を寄こして、残った連中と共に吉村が雑踏の中に消える。下心を隠しもしない肉食女子と二人きりにされてしまい、須永は途方に暮れた。 「えーと俺地下鉄だから、悪いけどここで」 「じゃあ私も地下鉄で帰る。電車代、そんなに変わらないし」 「でも雨が酷くなるかもよ。お気に入りのブーツが濡れたら困るんじゃないの?」 「コンビニで傘買うから平気」  さすがあの吉村を振りきるだけあって、なかなか手強い。どうしたものかと思案していると、不意打ちのように胸に抱きつかれた。 「何、いきなり。どうしたの?」 「どうしたの、はこっちのセリフ。須永くんってば噂と全然違うんだもん。誘ったら絶対に断られないって聞いてたのにめちゃくちゃガード固いし」  責めるようなまなざしを向けられ、須永は頭を掻きむしりたくなった。自分の変わりように戸惑っているのは、他ならぬ須永自身だ。 「正直に言うけど、俺今気になってる人がいるんだよ。だからこういうのは困る。悪いけど手を離してくれる?」 「何よそれ……なんで急にそんなこと言うの? 私のことが気に入らないならはっきりそう言えばいいじゃない」  気丈なことを言いながらも、コートに縋りつく手が震えている。こんな往来で泣かれてしまっては、無下に突き放すこともできない。 (勘弁してくれ……) 「あのさ野宮さん、このままじゃ濡れちゃうよ。とにかく今日のところは帰らない? 最寄り駅まで送るから」  相手を逆上させないよう穏やかに告げるも、野宮から返事はない。  はあと溜め息をつき、思わず天を仰ぐ。その時、視界の端に見知った男の姿を見つけ、大きく心臓が跳ねた。
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