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「だからさぁ、何も踏み倒そうって言ってんじゃないんだよ。たまたま今手持ちがないだけで、コンビニ行きゃ現金下ろせるんだって」
「だけどそのまま戻ってこない可能性だってあるのよね」
「なんだよ、客の言葉が信じらねえの?」
「信じたいのはやまやまだけど、これまでいろいろあったんでね。お友達や家族に頼るとか、何かしら方法はあるでしょう?」
いつもの席で窓の外を眺めながら、安曇は勇ママと一見客との会話に耳を傾ける。レスラーも顔負けの勇ママを前にして、勇気のある客だ。
(そういえば渉くんと初めてこの店で会った時も、似たようなシチュエーションだったな)
初めて訪れたミックスバーで、待ち合わせた友人が現れず、おまけに財布を落とした須永は、支払いができないとママに泣きついていた。珍しくママの態度が軟化したことに興味を引かれ、彼の容姿があまりに理想的だったことに驚いた。
甘いルックスや落ち着き払った様子からして、てっきり遊び慣れた大学生かと思ったのに、実際の彼はまっすぐでまっとうな青年だった。
八つも年下の彼から、安曇は多くのことを教わった。
食事はただ空腹を満たすためのものじゃないこと。一見意味のないメッセージのやり取りに言葉以上の意味があること。好きになった相手からの裏切りが、こんなにも堪えること。
須永がただの軽薄な若者ならよかった。女性に飽きて興味本位で男に声をかけるような人間だったら、これほど痛手を受けることはなかったのに。
(珍しく本気になった相手が、よりにもよってノンケだったなんてな)
須永からはあれから毎日メッセージが送られてくる。おはように始まり、おやすみなさいで終わる。好天続きだからか、食事や遊びに誘われることはなかった。当然安曇は一度も返信していない。送る相手のいなくなった柴犬のスタンプが、なんだか不憫に思えた。
「いい加減にしろ。ないものはないって言ってんだろ!」
「大きな声を出さないでくれる? これ以上騒ぐようならお巡りさんに来てもらうわよ。他のお客様に迷惑だわ」
勇ママと一見客とのバトルは、なおも続いていた。ヒートアップしているのは客の方だけで、ママは変わらず冷静なのが頼もしい。
(そうはいっても、やっぱりちょっと耳障りだな)
「ママ、チェックお願い。ついでにそっちの人のも払わせて」
立ち上がって財布を取り出すと、勇ママは不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。
「またあんたは……。厄介ごとからすぐ目を背けるの、悪い癖よ」
「せっかく払ってくれるつってんのに、人の善意にケチつけんなよ。悪いね、お兄さん。次会った時は奢らせてよ。あんたキレーな顔してるし、なんなら体で払ってもいいけど?」
安曇は目線だけを動かし、男を上から下まで検分してみせる。たっぷり値踏みしてから視線を逸らすと、カウンターテーブルの上に万札を二枚滑らせた。
「奢りもご奉仕も結構です。その代わり今後ここへは来ないでもらえます? できればあなたの顔は二度と見たくないので」
男は顔を怒りで真っ赤に染めると、座っていたスツールを勢いよく蹴倒した。それだけでは気が済まなかったのか、飲みかけのウイスキーを安曇の顔に引っかける。
「男好きのくせに何イキがってんだ! 言われなくてもこんな店二度と来るか!」
吐き捨てるように言い放ち、男が慌ただしく店を出ていく。大きな音を立ててドアが閉まると、張り詰めていた店内の空気が、ふっと緩んだ。
「ごめん、ママ。勝手なことして」
「いいのよ。安曇ちゃんがああ言わなきゃアタシが蹴り出してたわ。酷い目に遭ったわね。ほら顔拭いて。せっかくのいい男が台無しよ」
差し出されたタオルを断り、ハンカチで濡れた顔や髪を拭く。香りだけでかなり高価なウイスキーだとわかる。手持ちの金もないのに、ずいぶんと景気のいい注文をしたものだ。
「お代はいいわ。店を守ってくれたお礼」
「守っただなんて大げさだな。俺は自分が不快な思いをしたくなかっただけだよ。むしろ迷惑料にしたら足りないくらいだ」
「迷惑かけられたのは安曇ちゃんじゃないの」
「必要以上に騒ぎを大きくしたのは俺だよ」
断固として代金を受け取ろうとしない勇ママに、半ば無理やりお金を押しつけ、騒がせたことを詫びてから店を出た。ママも客もこういった揉め事には慣れているので、騒ぎの元凶さえいなくなれば、店内は何事もなかったように元の落ち着きを取り戻す。
ドアの外はいつもの喧騒に包まれていた。
人の話し声に、鳴り響くクラクション。肌を嬲る風は乾いていて冷たい。髪が濡れているので尚更だ。
「さむ……」
電車で帰るつもりだったが、タクシーを使った方がいいかもしれない。
「寒いならあっためてあげようか」
突然聞こえてきた声に驚き、ビクリと体が震える。耳に心地いい低音は、安曇のよく知る男のものだった。
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