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「九段下までお願いします」
「なんで九段下?」
「九段下のマンションで一人暮らししてるんです。俺たちってほんとにお互いのこと何も知らなかったんだね」
そう言って、繋いだままの手に力を込める。
それからは特に何も話さず、車のエンジン音だけが車内に響いていた。
十五分ほどで目的地に到着し、須永が素早く支払いを済ませてタクシーを降りる。
「タクシー代、半分出すよ」
「ダメ。俺が勝手に連れて来たんだから俺が出すのが道理でしょ?」
微笑みながら「初めての時と逆だね」と告げられて、かあっと頬が熱くなる。タクシーを降りた後、どちらからともなく手を繋いだ。時間が時間だけに、辺りに人影は見当たらない。もしもこれが人の行き交う日中でも、彼なら人目を気にせず手を繋ぐような気がした。
須永が暮らすマンションは、駅から歩いてすぐの場所にあった。単身者用のようだが、中はそれなりに広さがある。全体的に色味が少なく、すっきりと片付いていて、いかにも須永が暮らしている部屋という感じだ。
「すぐにエアコンが効いてくるから。あ、そこのハンガー使って」
「ありがとう。きれいにしてるね。ちゃんと勉強もしてるみたいだし、偉いな」
ローテーブルの上に広げられたテキストを眺めて言うと、須永が不満げに眉をしかめた。
「そうやって、すぐに子供扱いしないでくれる? 褒められたくてここに連れて来たんじゃないよ。これで髪拭いて。今、飲みもの用意するから」
手渡されたタオルは、湿っていて温かかった。ほかほかの蒸しタオルに顔を埋め、ふうと息を吐く。冷えた肌がじわじわと温まると、やけにホッとした。
「はい、ホットココア。甘い方がよければ砂糖入れるけど」
「このままでいいよ。ありがとう、いただきます」
マグカップを両手で持ち、ふうと息を吹きかける。淡い色合いのホットココアは、尖ったところが一切ない優しい味がした。
「ここ、学生の部屋にしては贅沢でしょ。家賃も学費も親が出してくれてるんだ。碧さんは甘えられるうちは甘えればいいって言ったけど、俺はもう充分甘えてるんだよ」
駅近の1LDK、確かに学生には過分な部屋だ。その家賃をポンと出せるのだから、須永の実家はかなり裕福なのだろう。
「公園で海を見ながら考えてたんだ。これまで俺、何かを本気で欲しいと思ったことってあったのかなって」
「欲しいものがない?」
それは結構寂しいことなんじゃないだろうか。かける言葉を探していたら、須永が隣に腰を下ろした。安曇からマグカップを奪い、安曇の手のひらに自身の手のひらを合わせる。
「楽しいことなら人並みにやってきたつもりなんだよ。そこそこの大学に入って、友達とバカやったり、女の子と遊んだり……でも何をやっても満たされた気がしない。なら俺が本当に欲しいと思えるものって一体なんなんだろうって」
「考えてみて、わかったのか?」
「頭に浮かんだのは碧さんの指だった」
「俺の指?」
「横浜でデートした日ね、この指に触れたいなって、ずっと思ってたんだ」
須永の指に力がこもる。握られたのは手のひらなのに、心臓を掴まれたような気がした。
「ずいぶん欲がないな」
「甘いよ、碧さん。その先に無限の欲望が隠れてるんだから」
悪戯っぽく笑って言い、安曇の指をぱくりと咥える。手の甲や指先に唇で優しく触れられ、鬱屈を抱えた胸がジクリと疼いた。
「手、震えてる。寒い?」
「――君はわかってないんだ。同性との恋愛は楽しいことばかりじゃない。むしろ面倒なことの方がずっと多い。ゲイじゃないなら尚更だ」
「自分がゲイかどうかは正直まだわからない。でも心から欲しいと思えたのは碧さんだけだった。それだけじゃ足りない?」
「渉くん……」
理想の顔はと聞かれたら、この顔ですと答える。手足は長いし、言動はどこまでも甘い。だけど安曇が一番惹かれたのは、まっすぐなその心根だ。自分さえ気づかなかった寂しさに、須永だけが気づいてくれた。
「ずっと、雨が嫌いだった。雨が降ると嫌なことばかり思い出す。なのに君と出会ってから雨の日が待ち遠しかった。一緒にご飯を食べるだけで楽しくて、でもいつもそわそわして落ち着かない。……多分こういう気持ちが恋なんだろうと思う」
須永の瞳がゆっくりと見開かれる。
これ以上、ごまかすことも自分を偽ることもできなかった。もしかしたら家を出た時、父親もこんな気持ちだったのかもしれない。
「君が好きだ。ごめん、君の家族を悲しませるってわかってるのに、どうしても諦められない……」
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