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不意に蘇った感覚が、疲弊しきった心を平手打ちして、僕は立ちすくんだ。僕の手に握られていたのは、一枚の絵。それは高二の冬、進路に迷いながら、僕が描き上げた最後の絵だった。僕はあの日、教室の窓から見える桜の梢に咲く蕾を見て、すがるような気持ちで筆を動かしていた。
「懐かしいわね。こっちにも、美術部で展示していたキャンバスがあるわよ」
母はそう言って、感慨深げに段ボールを漁っていた。けれど、その言葉に僕は相槌さえ打つことが出来なかった。本当は随分前から、この生活の限界は来ていたのかもしれない。この蕾を書いた後、僕は絵をやめて、それなりに頭の良かった友達と同じ大学に行き、親の求めるまま保険会社の事務に就職をした。やりたいことから目を背けて、どんな成果を出したところで、僕はニヒルだった。もちろん、この10年で、一度も画家になる夢を思い出さなかったといえば嘘になるが、その度にあの呪いの言葉がフラッシュバックして、僕をとどまらせていたのだ。
「お前の絵、つまんないよ」
画家になるという夢に決定的な終止符を打ったのは、荒木悠平という、僕の親友の言葉だった。渾身の力作に下ったこの評価によって、僕は今まであやふやにしてきた、圧倒的な才能の壁の前に完膚なきまでに崩れ落ちたのだった。しかし、久しぶりの帰省で、母がなにげなく引っ張り出してきたこの因縁の絵が、徹底的に追いやっていたはずの絵への醜い執着を蘇らせることになった。僕は、ずっと、この呪いの言葉のせいにして逃げてきた。僕はずるいやつだった。まるで、高校の頃と変わっていない。ふと、僕は高校2年生の夏休み、文化祭に向けて準備をしていた日のことを思い出す。皮肉にも、荒木との3年間の思い出の中で、それが最も記憶に残っている出来事だった。
「あぁ、アイス食べたいな」
僕が独り言のように呟いた言葉に、荒木は作業の手を止めた。ダルダルのズボンについた木屑を払い、荒木はヒョイと身軽に立ち上がった。 朝には枠だけだった文化祭の看板が、荒木の足元でほとんど完成に近い形で置かれていた。
「じゃあ、今から買いに行こうぜ」
僕が目を見開き驚くと、荒木は笑った。もちろん、休暇中であっても、制服のまま買い出しに行くことや寄り道をすることは校則で禁止されていたからだ。
「もう、作業も終わりそうだし、大丈夫だろ。それより、奇遇だな。俺もちょうど食べたかったんだよ、アイス」
僕は何も答えなかったが、荒木は気にせず僕の手を引いた。側から見れば、脅されているようにも見えたが、実際はそんなことはなかった。荒木はそうやって、ルールに囚われてばかりの臆病な僕をいつも少し強引に、連れ出してくれるのだ。学校の裏側にまわりで1つだけ低くなっているフェンスを超えて、そのままコンビニまで走る。 幸い見回りの教師の影はなさそうだった。
しかし、アイスを買い、教室に戻った時、僕らを待ち受けていたのは生徒指導の柴田だった。どうやら、生徒のいない部屋を不審に思って、入ってきたらしい。柴田は水滴のついたコンビニの袋を見るやいなや、鬼のような形相でこちらに迫ってきた。僕は立ちすくんだ。怒られる、そう覚悟を決めた時、柴田のどなり声が聞こえた。
「荒木、どこ行ってたんだ?」
柴田が名指ししたのは、荒木、ひとりの名前だけだった。僕は困惑しながら、荒木を見た。が、僕の隣で荒木はけろっとした顔をしていた。きっと、怒られ慣れていたのだろう。当時の荒木悠平はいわゆる不良で、職員室に呼びつけられることも日常茶飯事の生徒だった。
「お前は本当にどうしようもない奴だな。今度は杉野までそそのかして、コンビニに付き合わせたんだろ。この件は、担任にも厳重に報告しておくからな」
唆したのはむしろ、僕の方ですというために、口を開くと、荒木が不意に僕の肩を叩き、大丈夫だから任せておけと、いう風に頷いた。それから、すいません、荒木が深く頭を下げると、柴田はその頭を軽く小突いて、ニタニタと不快な笑みを浮かべて、言った。
「大体、お前はひとり親だから、ろくな育て方しかしてもらえなかったんだ」
その一言で、ピンと空気が張り詰めた。荒木が目の色を変えたのが、横からでも見てとれた。荒木は物凄いスピードで一直線に、柴田の方に突っ込んでいた。鈍い音が、教室に響き渡る。次に僕の前にあったのは、後ろ向きに倒れた柴田に拳を振り下ろさんとしている荒木の姿だった。止めようと思うのに、僕の足は恐怖で動かない。荒木の顔は上気し、わずかな殺意さえ帯び、馬乗りにされている柴田はおろおろと震えながら、腕で必死に頭を庇っていた。もう、だめだと、僕が思った。が、荒木は急に握っていた拳を解いて、腕をだらりとおろして、そのまま、僕らに背を向け、教室を後にした。柴田は腰が抜けてしまったようで、教室はとても静かだった。その翌日から、荒木は一週間ほど学校に来なくなった。 停学にかかったというのが、専らの噂だった。その後、クラスメートに訳を聞かれても、僕は荒木を庇わなかった。それは柴田に口止めされていたからというより、卑怯で、最低な本性を知られて失望されることが怖かったからだ。今、考えれば、なにもこんな堅苦しい人生を送っている原因は、周りからの重圧ばかりではなく、周囲の賞賛や『優等生』というステータスにしがみつく、僕自身の女々しさにも問題があったのだと、わかる。絵を描きたい、純粋な気持ちに向き合うほど、僕はあいつに無性に会いたくなった。地元で荒木と仲の良かった友人にメールで電話番号を聞いて、翌日には僕は荒木に電話をかけた。かける前はひどく緊張して、頭が真っ白になった時用のカンペまで準備していたが、「もしもし」とあちら側が荒木の声が聞こえた瞬間に、僕の心の大部分を占めていた不安は姿を消した。 細々としたことを除いて、交わした会話の内容は次の通りだった。荒木は工事現場の配管工として、現在、要町で働いていること。そして、もう1つは、荒木が学校を辞めた後も、自分のことを友達だと思ってくれていたということだ。昔話に花を咲かせたあと、集合は木曜日の昼1時に三角公園と決まった。長期休暇中の僕は多少の自由が効いたので、荒木の提案をそのまま呑むことが出来た。自分から行動を起こせば、10年ぶりの旧友との再会は、拍子抜けするほど簡単にセッティングできたのだった。
だが、当日、三角公園の車よけの前までくると、突然、僕の足はぴたりと止まった。約束のベンチまで、あと数メートルのところだ。あとほんの少しで、中原のもとへ行けるのに、その時、鋭利なガラスの破片のような、あの呪いがぶり返した。「お前の絵、つまんないよ」その言葉を払拭するためにきたはずが、僕の目の前がその言葉で、また、真っ暗になっていく。こんな突飛なことができる奴じゃなかっただろと、渦まいた言葉に、僕の足がもと来た道の方向を向いた。
「おーい、杉野、どこ行くんだよ」
振り向くと、荒木がいた。昔よりシミやシワが増え、ひとまわりも恰幅が良くなった姿にも、昔の面影がくっきりと残されていた。「久しぶり……」僕の心に残った気まずさを隠すように言った言葉に、荒木は単なる懐かしさをたたえて、「ほんとに久しぶりだ」とにこやかに答えた。ベンチで座った後、向き合った荒木の目は、なぜ自分を呼んだのか、という当たり前の疑問を僕に伝えていた。が、僕の口は思うように開かないまま、沈黙が続いた。その時間が長引くほど、心臓は早まり、額には冷や汗がつたう。すると、荒木が言った。
「お前のことだ、よっぽど、思い詰めていることがあるんだろ。いいよ、言い出しづらいなら、ちゃんと心の整理がつくまで待ってるから、お前のペースで話したらいい。ずっとここで待っているからさ」 その言葉で、僕の涙腺が緩む。気づけば、僕は声をあげて、号泣していた。人前で涙を流すのはいつぶりのことだっただろう。けれど、荒木の前ではまるで、恥ずかしくはなかった。荒木は驚く素振りもなく、何も言わず僕の肩をどんと一度強く叩いた。
「お前、変わったな。昔と全然違う」
「……随分ダメダメになったよ」 とぎれとぎれに僕は答えると、「俺は、今のお前の方が好きだな」と、荒木が八重歯をみせ、ニコッと笑った。その瞬間、僕はきっと自分のありのままを受け入れることが出来るようになったのだ。時間はかかったが、少しずつ僕は過去の悩みや諦めきれない夢を語り、荒木はその告白に黙って何度も頷いた。しばらくして突き上げるような嗚咽が収まり、涙を拭う余裕が出ると、不意に荒木の手が視界に映った。その手は、学生時代の華奢で白い手ではない。いわゆる、肉体労働者の、木の根のように節くれだった手だ。あれから10年の時が経っても変わらないままの学生気分の僕を離し、社会の荒波の中で人生を切り開き、新しい自分の居場所を作ってきた荒木の人生の全てを物語っていた。不意に、僕に絵をかきたい衝動に襲われた。 僕はカバンに入っていた携帯用の小さなスケッチブックとプラスチック製の筆箱を、急いで取り出す。
「荒木、お前の手を描きたい」 勢いのまま、僕は荒木に言っていた。一瞬、荒木は少し困ったような、驚いたような不思議な顔をした。けれど、今の僕にその手を描写したい理由をうまく説明する自信はなかった。
「なんだよ、いきなり」と、荒木は笑った。
「頼むよ。今、この瞬間じゃなきゃだめなんだ、きっと」
「なにも、こんな汚い手じゃなくてもいいのに。街中を探せば、いくらでも映えるような綺麗な手はあるだろう」と、荒木は恥ずかしそうに、頭を掻いた。 確かに普通でいえば、荒木の手は綺麗と呼べるものではなかった。小指がわずかに変形し、その先にある爪は逆剥けの白さが目立つほど土色に黄ばんでいた。けれど、僕はその手をはっきり見て、心底美しく感じた。それはあの日書いた桜の梢や、そのほか世界にある最高峰の美術品と同じだった。荒木の手の存在は上辺の繕いではなく、本質的な美しさを現していたのだ。
無限に続く白の中に、鉛筆で1つずつ線を描き出す。多少の曲がりやズレなど、もう、気にはならなかった。ただ、夢中だったのだ。見たままではなく、僕だけの、僕の目が映し出した荒木の手をそこに表さなくてはならない、こんな使命感にかられて、筆を動かすのは初めてだった。息をすることさえ、ほとんど忘れていた。 できた、僕がそう声をあげた時には、手の側面はすっかり、鉛色に染まっていた。荒木が横から、僕のスケッチブックを覗く。数秒間の沈黙。最後の審判を待つように、僕は唾を飲む。
「いいじゃん」 荒木の言葉は、それだけだった。でも、それだけでよかった。強張っていた体を脱力する。お世辞や飾りもない、ありのままの、荒木の感想が僕を苦しめた呪いの捕縛を解くのが、わかった。僕はやっと、自由になった。闇に閉ざされていた、他でもない自分が書くべき絵や進むべきこの先の道が、目の前にくっきりと現れた気がした。もう、自分の決断を後悔し、立ち止まる暇はない。
僕はすくっと立ち上がり、荒木の目を見つめた。
「やっぱり、俺、画家になるよ。描きたいものがみつかったんだ」
荒木は立ち上がると、また、笑った。
「じゃあ、約束だ。次の作品が出来たら、また、ここに持って来てくれよ。お前の絵を1番に見たいんだ」
その時、冷たい冬の終わりを告げるように、南風が僕らの間を通り抜けていった。ついに冬が終わりを告げ、僕の待ち望んでいた春が訪れたのだ。公園を出て大きな通りに出ると、そこには数日前まで固かったはずの桜の蕾が、麗かな日差しを受け、桃色の花をたたえている。カチリ、僕の世界の凍っていた時計が、未来への確かな時を刻み始めた。
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