色褪せる

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 思い出のベンチに座り、自慢のクロワッサンに口をつける。  秋の落ち葉を踏みつけた時のような、何層にも重なった香ばしい歯触り。中の生地は素晴らしくふっくらとしていて、バターの香りと甘味が口いっぱいに広がる。  そのクロワッサンは、本当に美味しかった。町のパン屋というよりは、都会のパン専門店のそれだ。気付けば食べ終えてしまっていた。  素晴らしい味だった。  なのに、心は欠落している。  売れなくてもうコッペパンを出していないなら、それでも納得はできた。残念だけれど商売だから仕方ない。あの店が潰れずに人気になったのだから、それを喜ぶべきだ。そう割り切ってこのクロワッサンを堪能していたはずだ。  ぼくにとって、あのコッペパンは本当に好きな、大事な存在だったのだ。もちろん味は正直大したことない。他人からすれば物好きなやつだと思うだろうし、そう思われても平気だった。それでもぼくはこのパンが好きなんだ。胸を張ってそう返していただろう。  あの時の言葉。彼女は純粋な善意で、ぼくに洗練された今のパンを楽しんでもらおうと言ってくれたのだ。それは分かっている。分かっているんだ。  でも、「昔はパンを出せなかった」という、あの言葉。裏返せば、「昔のパンは」ということになる。  自分が抱いていた価値を、作り手に否定されたのだ。
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