色褪せる

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 それ以来、ぼくがその店に近付くことはなかった。  理由は単純なもので、しばらくの間忙しくて寄る余裕がなかったのだ。そして、ようやく行こうかと思った頃には、かなりの空白期間ができてしまっていた。  結局、ぼくはその店に近付かないことにした。もうそこは潰れているかもしれないからだ。あの夫婦が一生懸命やっていた店が、物言わぬシャッターに成り果てている姿など見たくなかった。終わりを拒めば、ぼくの中でそれはまだ続いている。そんな情けない考えに基づき、ぼくはその店を大事な記憶の宝箱にしまっていた。  それから何年もの時が過ぎていった。ぼくはすっかり社会の荒波に揉まれ、丸めた新聞紙のようになって生きていた。  慌ただしい毎日の中で、時々何かが喉元で引っかかっているような、気持ち悪い異物感があった。心のどこかでもやもやとした何かが置き去りになっている。そのが次第に形を取っていき、ようやく僕はそれを思い出したのだ。  いつしか、すっかり忘れてしまっていた。思い出の味は記憶の果てから、えも言われぬ薫香を放ってくる。人間、手に入らないものを欲しくなってしまうものだ。それが後々になって手に入らなくなったものとなれば、その欲求は何倍にも増大する。  もう一度、あのコッペパンを食べたい。  くたくたになった時には、いつも決まってそんなことを考えるようになっていた。  何を食べても満たされない。あれよりも美味しいパンなんて山ほどあるのに、ぼくの胃はあのざっけない味を求めているのだ。あれと同じパンはいくらでもある。けれど違う、ぼくはが好きだったんだ。  でも、今更どうしろって言うんだ。  あの店に行かなくなったのは他でもないぼくだ。あれから一体何年経ったと思っている。当時すでに潰れそうになっていたのだから、もはや今行ったとしても何も残っていないだろう。形あるものはいつか必ずなくなる。あのパン屋は、もうなくなってしまったんだ。  どれだけ理性で食欲を押さえつけても、それはゴムのように弾んで倍の力で飛び出そうとする。  どうにもならなくなったぼくは、ある日その店を調べてみることにした。名前は確か……何だったっけ。何しろ六年前のことなので、店名があやふやだ。仕方なく地図から探してみる。  そして、ようやくそれを発見する。 「……違う」  しかし、その名はあの店のものではなかった。
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