色褪せる

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 そして、ついにぼくはその店へとやって来た。  なるほど、休日だということを差し引いてもすごい人気だ。まだ午前十時だというのに、すでにたくさんの人が訪れていた。何だか、自分の大切なものを奪われてしまったような気持ちになる。自分が行くのをやめてしまったくせに、勝手なものだ。  あの人混みの中で買い物をするのは窮屈なので、中のお客さんが離れるタイミングを待つ。  少ししてからその流れが訪れた。今だ。  心を躍らせるパンの香りが、店の前からでもはっきりと感じられる。以前(といっても六年前だが)とは比べものにならないほど良い香りだ。  どきどきしながら、人々に紛れ込んで店内へと侵入する。以前よりも広くなった中は、デニッシュやベーコンエピなど華やかな商品が並んでいた。気品溢れるバゲットもあれば、いたずら心を感じられる動物パンもある(何の動物だろう)。どれも艶良く焼き上がっていて美味しそうだ。  いけない。ぼくは今日、あのコッペパンを求めてここまで足を運んだのだ。誘惑に負けてはならない。そう自分を諫めながらも、すでにクロワッサンをトレーに乗せている自分がいた。……まあ、ひとつくらいはいいだろう。人間、どんな時でも柔軟な対応を取っていきたい。  本命を求めて店内を彷徨うものの、愛しのパンはどこにも置いていなかった。まさか、そんな……もしかしたら、まだ焼成が済んでいないのかもしれない。聞いてみるべきか。  レジにはあの奥さんが立っていた。そうそう、こんな顔だった。懐かしの再会にひとりで高揚する。どうやら向こうはぼくのことを覚えていないらしい。まあそれも当然だ。何しろぼくは六年前の客なのだから。ぼくだって向こうの顔を忘れてしまっていたし。 「あの……コッペパンとかあったりします?」  奥さんは小さく首をかしげる。どうやらこの質問を受けても「コッペパンのお客さん」はさすがに忘れてしまっているらしい。
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