色褪せる

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「ええと、食パンやバゲットでしたらございますが……」 「コッペパンは、ない?」 「はい、あっ」  執拗なその食い下がりに、彼女はぼくのことを思い出したらしい。 「もしかして、昔、当店をご贔屓にしてくださった方ですか?」  思い出してもらえた嬉しさと、離れたことに対する罪悪感が混じる。「ええ」とぼくは言う。 「長い間ここに来ていなかったので。随分と変わりましたね」 「ええ、色々ありまして……もうコッペパンは置いてないんです。申し訳ございません」 「あ……そう、ですか。ではこれでお願いします」  小銭を用意しながら、香ばしい三日月が梱包されるのを待つ。 「昔は美味しいパンをお出しできなくて……今ならきっとびっくりしますよ。お待たせしました!」    その言葉が脳を揺さぶった。 「え」  今の発言を、頭が拒んでいた。  地味だが小さな煌めきを持っていた大学時代の記憶。そこに挟み込んでいた栞が腐り、異臭を放つ不愉快な染みとなってページを汚す感覚があった。  蹂躙。 「……お客様?」  満面の笑みで差し出した彼女は、商品を受け取らずに突っ立っているぼくを不思議に思ったらしい。ようやく我に返ったぼくは、にこやかな愛想笑いを作ってそれを受け取った。 「ありがとうございました!」  その眩しい言葉も、ぼくの胸に届くことはなかった。
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