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星をつかむ
冬馬と別れてから三年が経った。
バーでの一件があった翌日から、俺は住んでいた部屋を引き払い、身ひとつで地方の温泉地を転々と旅した。
露天風呂に入るたびに、冬馬のことを思い出して……笑えると思ったのに、ぜんぜん笑えなかった。正直吐きそうなくらい辛かった。
まぁそれは一年くらい前までの話で、今ではもうひとりに慣れた。
謙人ともあれから一度も会ってない。スマホは捨ててしまったので、誰とも連絡すらとってない。
そんな俺は今、東北のとある温泉旅館に住み込みで板前の修行をしている。
酔った状態で温泉に入り、そのまま寝てしまって死にかけていたところを、ここの板長に助けられたのが縁だった。
まだまだ下っ端。一人前になるまでの道のりは長いけど、精進していくつもりだ。
ここには俺の過去を知る人間が一人もいない。……いや、本当はいるのかもしれないけど、そっとしておいてくれてるのかもしれない。
何しろここの人たちはみんな優しい。若いのが俺しかいないこともあってか、「ミサキちゃん」と呼んで可愛がってくれる。
ありがたいことに、しつこく素性を聞きだそうとしてくる人もいない。だから過去を思い出すことも、今ではほとんどない。
「……ふぅ」
やっぱり風呂はいい。仕事を終えれば、毎晩こうして温泉につかれる幸せ。こんな俺にはもったいない。
仕事とはいえ十年もの間セックス三昧で生きてきた俺だけど、不思議なことに冬馬と別れてからというもの、性欲がなくなった。
ゲイであることを隠すつもりはないけど、そもそもそういう相手が欲しいとすら思わない今は、カミングアウトの必要性がない。
「いっそ仙人でも目指すかぁ……」
星が綺麗だ。やっぱり本物は違う。
空気が澄んだ山奥で見る星は格別。とくに冬の晴れた夜は……。
久しぶりに肉が食べたい気分だ。ビールと一緒に。
あれから酒も肉もほとんど口にしてない。……いや、本当に仙人になろうとか思ってるわけじゃなく、酒はだめな自分を余計にだめにするって気づいたし、肉は……まぁ、まかないではあまり出ないし。
こんな俺でも、あれから少しは変われたと思う。変わらないのは、二度と恋愛をしたくないという気持ちだけ。
このまま料理に人生を捧げ、温泉とともに生きる……それが今の俺の夢だ。
「さってあがるかぁ」
なんかブクブクうるさいな。まぁここは本物のサルがしょっちゅう出るからな。遭遇する前にさっさとあがろう。
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