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一・嫌いな男
今年で九歳の誕生日を迎える、大河内圭人の趣味は空想だ。
小学六年生でクラスメイトに片想い。中学一年生に進学してから告白。そして晴れて恋人になってから遊園地での初デート。どちらからともなく手を繋いで、閉園ギリギリまで幸せな一時を楽しんだ別れ際、寂しくなって初めてのキスをする。
二十代後半になったら、中学時代から付き合っている恋人にプロポーズ。二十八歳で式を挙げる。新居は、世田谷に構える高層マンションの最上階を両親から譲り受け、三十になったら子供を二人産んでもらう。授業参観日は夫婦揃って足を運び、運動会では場所取りに勤しみ、ビデオカメラで可愛い我が子を撮影する。
子供を跡取りとして育てながら五十過ぎまで懸命に働き、早期退職をしてからセカンドライフと称して、田舎に移住し農作物を育てる。娘がいるのなら、嫁ぐときには、涙を堪えて一緒にバージンロードを歩くのも忘れていない。大往生しつつも、いずれは沢山の孫たちや、娘、息子、愛する妻に囲まれ、自宅にて安らかに息を引き取る。これで完璧だ。
「食後は歯磨きしないと、嫌われちゃうな」
自前の歯ブラシとコップを持参し、昼休みにはトイレへ行く癖までつけた。鏡台にて青のりなどの付着物がないかを確認をしてから、何食わぬ顔で教室に戻ると、机の中に収めていたノートを取り出す。先ほど脳内で練っていた人生設計を記したノートだ。万が一紛失してしまったときのために、圭人の名前は書かれていない。
失敗することなど微塵も考えておらず、大勢いる女子の中から一人だけ、将来一緒になりたい花嫁候補を探すことで夢中になる。
隣のクラスの紀香ちゃんは、スレンダーだけど性格がきつめとか、同じクラスの真帆ちゃんは、可愛くて優しいけれど泣き虫とか、ノートに書きつづるのは女の子のことばかり。親切にされた場合は一気にポイントが加算されるし、逆に嫌なことをされれば候補から除外する。
(リスト全員から告白されてしまったり、愛人にしてほしいと頼まれたり、女の子同士で陰ながら取り合いをされたら困っちゃうなあ)
圭人が把握しているのは同学年の女子六十人だけだが、その中の誰かと必ず結ばれるのだと思っていた。世界がまだ小学校という狭い空間しかないゆえに、例外なく彼女を作って結婚するものだと妄信していた。
一・嫌いな男
「アイツの名前は出さないでください!」
そう声を張り上げると、大河内圭人は乱暴にビールジョッキを置いた。
つい先日、大学四年目を迎えた圭人は、知人と共に居酒屋にいた。仕事終わりの会社員が大勢押しかける、どこにでもありそうなチェーン店だ。狭く薄汚れた店内には、ゆったりと座れる個室がないことから、女性客はほんの数人いる程度。食後のデザートの類いがなければ、若くて見目のよい店員もいないので、草臥れたスーツの男性客が大半を占めている。気兼ねなく飲むには丁度いいだろう。
「なあ、なんでアイツの名前を出すんだ!?」
一度昂ってしまった感情はなかなか抑えられず、隣に腰かける男に詰め寄った。
「はいはい、落ち着いてな~」
適当にあしらわれ、不貞腐れた圭人は躊躇することなくジョッキの中身を呷る。
「ノンアルなのになんで酔ってんだ?」
「さあなー」
同じ学科を専攻している知人、三名が顔を合わせて首を傾げている。圭人は酒癖があまりよくないため、保護者がいない場合は絶対に飲ませるなと、同級生の間では禁酒を言い渡されている。それゆえにノンアルコールを飲まされているのだが、本人は気づいていない。
「なんでこう毎回、宮の話をすると怒るかな……別に、仲悪そうには見えないんだけど」
「さあな。彼女でも取られたんじゃね?」
宮という名前の人物は、圭人の気に食わない同級生の名前だ。異性に告白された回数は軽く三桁を超え、常に誰かが注目している。爽やかな外見がものを言うため、周囲の人間がここぞとばかりに持て囃す。端整な顔立ちをしている男前は、異性に振られまくっている圭人と違いとにかくモテるのだ。
圭人の外見は幼少の頃から大して変化はない。ビン底メガネに、伸びきったぼさぼさ頭をしている。背は、日本人男子の平均なのだが、体躯は所謂もやしっ子というやつだ。ジムで鍛えようにも、肉づきが悪いために体重だけが減ってしまうので細いままだ。本人を置き去りにしたまま、会話はどんどん繰り広げられてゆく。
「俺も聞いたことある。けど、人を好きになったら友情とか関係ないでしょ!」
「いやいや俺は友情を取るよ!?」
「はい、嘘~!」
圭人の顔色は段々と悪くなるというのに、誰一人として気に留めていなかった。それどころか益々盛り上がる一方だ。
「でも宮って悪いヤツじゃねーよな?」
「うん。提出間近のレポート終わらなくて切羽詰まってたら、資料一緒に探してくれた」
「俺もある。風邪引いて具合悪いときに、飲み会の幹事任されてへばってたんだけど、別のサークルなのに代わりに請け負ってくれて、帰らしてくれたわ」
三人とも覚えがあるのか、渦中の男に助けられたことを次々と上げてゆく。
「フン。とんだ偽善者だな」
圭人は精一杯、話題を逸らそうと毒づくも、健闘むなしく無視されてしまった。男の名前すら耳にしたくないので、自ら会話に加わることなく、引っ切り無しに出てくるので耳を塞いだ。嫌がる圭人のことなどどうでもいいのか会話は止まらない。
これでは、単なる顔見知り程度でしかない知人を選び、試験前だというのに無理を通してまで飲み会を開いた意味がない。良い気分で酒を煽るつもりだったのに、とんだ大誤算だ。力なく肩を落として項垂れる。
そんな圭人を知ってか知らずか、更に落胆させるべく追撃の一言が加えられる。
「大河内のスペックと家柄は完璧だけど」
「性格と服装に難あり──だよな」
「あ、わかるわかるー」
ギンガムチェックのシャツを着ているというのに、そこがダサいと言われたり、口調がきついと言われたり、今時ビン底メガネはないと一蹴される。聞き捨てならない言葉の数々に、笑って流せるほど圭人は大人ではなかった。
「……な、なんだとっ!?」
外も中身も自信があるというのに、どうして揃いも揃って性格や服装のことを言われてしまうのか。面白くない。
「まあ、そう落ち込むなって。宮に敵うヤツなんて同級にはいないからさ!」
「ライバル視しても時間の無駄だよ」
「だよな。単なるチャラ男とかなら分かるけど、律儀だし、義理硬いし、一体どこが気に食わないのか俺たちには理解できないぞ」
三人はうんうんと一斉に頷く。明らかに分が悪いことを察した圭人は、飲み会に誘った面子がそもそもの間違いだったことを理解した。下級生を狙うべきだったと反省する。
名前を聞くだけでも腹の立つ男、宮友宏の信者はみな根強いことを学んだ。そんな三人を尻目に、店員が運んできた日本酒に手を伸ばすと、泥酔するまで飲み続けるのだった。
ちゅんちゅんと小鳥囀る早朝。ブラインドの僅かな隙間から差し込む光が、暗がりの寝室を明るく照らす。
だが、そんな清々しいはずの朝は、一瞬のうちにして終わりを告げる。頭が割れるような痛みに襲われたのだ。考えなくても分かる――二日酔いだ。
だが異変はそれだけではなかった。一先ず、視力が悪くてこのままでは判断が難しいので、枕元にあるメガネケースを手に取り装着する。視界が鮮明になってから恐る恐る隣の様子を窺う。杞憂であってほしい。
「………………ッ」
願い空しく目に飛び込んできた僅かに信じがたい光景に、圭人は息を飲む。またやらかしてしまったのだ。悔やんでいると、隣で横たわる上半身裸の人物は、心底迷惑そうに瞼を開く。視線がかち合う。真夏でもないのに冷や汗がどっと噴き出る。
「な、なんでお前がいるんだよ!?」
二日酔いの頭痛が一気に吹き飛び、ただただ疑問だけが浮かび上がった。昨晩、嫌と言うほど聞かされた人物がいるのだから、動揺しないわけがない。しかも、相手だけではなく自分も下着一枚という恰好なので、焦らないわけ
「……朝っぱらから騒ぐな。近所迷惑だ」
「し、静かにしてられるか! どうしてお前がここにいるんだ!」
我が物顔をして寝転がっている男――宮友宏を問い詰める。相変わらず無駄に整った顔立ちを目にするだけで、腹立たしい気持ちになる。圭人はこの男が嫌いだ。大して鍛えているわけでもないのに恵まれた体躯をしており、貧弱な圭人とは雲泥の差がある。それだけでも気に食わないのに、背も一回り以上高く、上から見下ろされるので一緒にいるとコンプレックスを刺激されてしまう。小学生の頃は大差なかったのに、中学に進学してからは色んな方面で差をつけられ、苦手になってしまった。
そんな男が余裕綽々といった様子で堂々と構えている。男同士で朝を迎えたというのに、ふてぶてしさは相変わらずだ。
「俺が自分の家にいるのは当たり前だろうが。頭でも打ったのか? 圭人」
「は? なに言って…………、あれ?」
よくよく見ると色は似ているが自分の寝具ではなく、部屋やベッドも狭かった。匂いも違う。柑橘系の爽やかな香りがする。
「ったく、外では飲むなって言ってるのに、まだ分からないのか? アホなことばっか考えてるから学習能力が低下するんだぞ、圭人」
聞きたくもない小言を言われてしまい、圭人は思わずムッとする。
「うるさい。なんでそんなこと、お前に言われなきゃならないんだ」
「んなの、迷惑被るヤツがいるからに決まってんだろ」
「誰だよ!?」
即座に突っ込むと、友宏はやれやれといった呆れた表情をして見せた。
「俺だよ俺。同級の奴らには圭人に飲ませるなって釘差してんのに、勝手に飲んだって?」
「……べ、別に良いだろ、飲んだって」
しかし、飲み会後の記憶が一切ないので強気に出られないのも事実。会話をしながら昨夜のことを思い出そうと必死になるも、アルコールが入ったあとは曖昧になってしまうので自信がなかった。ビールのあとに日本酒を飲んだことしか覚えていない。
「よりによってお前と一晩とか……最悪」
「いいかげん、昔みたいに名前で呼んだらどうなんだ? 圭人」
「な、なんで、ぼ……俺がお前なんかを名前で呼ばなくちゃならないんだ。それより、気安く呼ぶなっていつも言って――ンンッ!?」
いきなり顎を掴まれ引き寄せられると、ふっと眼前が暗くなる。しまったと気づいたときには既に遅く、文句を告げていた唇を強引にも塞がれた。薄ら開いていた隙間から舌を差し込まれ、ゆっくりと歯列をなぞられる。
振り解こうにも、力強く固定されているため身動きが取れなかった。隠していた舌先を絡め取られそうになり、なんとか胸を叩いて抵抗すると友宏は怯んだ。
「や……めろッ!! もう、なにするんだよ、一度ならず二度までも……ッ」
すぐさま口元を手の甲で拭い、目の前で悪びれもなくふてぶてしい男を睨んだ。しかし効果はないため素知らぬ顔をされる。中学一年の頃に初めて奪われて以来、なにかと理由をつけてはキスをしてくる。
圭人が友宏のことを苦手としている理由はこれだ。小学六年生の頃に人生設計のノートを見られてしまい、可愛い彼女とするはずだったことを、友宏が圭人相手にしようとするのだ。ファーストキスと遊園地、そして手を繋ぐという行為は友宏が掻っ攫ってしまった。そんな相手を嫌いにならないはずがない。その癖、自分はちゃっかり彼女を作っているので腹立たしいのだ。
「一度や二度じゃないだろ。それに、圭人を黙らせるにはこれが一番だ」
そんな態度に怒る気をなくした圭人は、諦めて床に落ちている衣服を身に纏った。頭以外に痛みなどはないので、単に面白がって脱がされただけなのだろう。
「はあ……もういいや、帰る」
「シャワー浴びてかないのか? 服なら大きいだろうけど、俺のを貸すぞ?」
「いいよ、室井に迎えに来てもらうし」
その名を耳にしただけで、なぜか友宏はムッとした。室井は圭人のお目つけ役兼、教育係を任されている執事だ。十数年前から住み込みで働いている。圭人は一人っこなので、兄のように慕っていると言っても過言ではない。年齢は三十代前半で、彼の祖父の代から仕えているので家族ぐるみで付き合いがある。
主に外出する際の送迎がメインだが、帰宅後には勉強を見たり、遊び相手になったりしたこともある。恥ずかしながら人生設計の相談も幾度となく繰り返している。生粋の坊ちゃんゆえに、専属の世話係が宛がわれていた。
圭人が室井の名前を出すと、穏やかな表情をしていた友宏の眉間にしわが寄るのだが、鈍いことを自覚していない圭人は気づかない。
「そうだ圭人。帰る前に俺に言うことがあるんじゃないのか?」
身支度を整え連絡してから部屋を出ようとしたそのとき。不意に呼び止められた。
「……え、なにかあったっけ?」
「ああ、一つしかないだろ」
文句は包み隠さず吐き出しすっきりしたので、指摘されても身に覚えがなかった。伝言を頼まれたわけでもない。立ち止まって喋り出すのを待つと、にやりと笑われた。
「お礼がまだなんじゃないのか? 圭人。迎えに来てくれてありがとう友宏様、だろ?」
「…………ッ」
聞こえない振りをしてその場を後にした。
圭人の両親は資産家だ。父方の曽祖父が立ち上げたホテル事業が軌道に乗り、全国各地にサービスを拡大したおかげで大河内グループは飛躍的な成功を遂げた。今では宿泊施設だけではなく、様々な分野を手掛けているために、単なる成金とはわけが違う。資産家の息子──それゆえに小学校でも目立ってしまい、なにかと孤立することが多かった。
子供は大人の態度にとても敏感だ。圭人の父が、公立校だというのに多額の寄付金を納付していたため、教師どころか校長すらも敬語で接するほどだ。そんな場面を目撃してしまえば、不満を持たれても反論できない。
『またアイツだけ贔屓されてるよ』
週に何度も遅刻をしても、全くペナルティを受けることのなかった圭人を見た生徒が、口々に愚痴を零す。唯一の救いは本人が頗る鈍いということだけだろうか。陰口を叩かれていることも知らずに六年間過ごしていた。
『それにしても、なんでアイツはあんなにダサいんだろ』
服装は、サスペンダーつきの短パンにワイシャツをきっちりと着込み、ボタンは開けずに全て止めている。服装の乱れは心の乱れ、という母親の教えのためか、私服登校の間はずっと一括してその恰好をしていた。着用している全てがブランドものだが、典型的な昔の坊ちゃんスタイルなのだ。
おまけに、視力があまりよくないのでビン底メガネをかけ、これでは女子どころか男子すら寄ってくることはないだろう。
クラス委員の女子が用事で声をかけただけで舞い上がっていたので、避けられていたことは露知らず。いつもつるんでいた人間を上げるとすれば、腐れ縁の続く宮友宏ともう一人だけだ。
中学、高校時代も〝もてたいなら目立つな〟と友宏に注意されていたので、コンタクトにするわけでもなく、長めでぼさっとした伸ばしっぱなしの頭髪と、服装だけは乱さないことを心掛けていた。
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