あるアイドルの卒業

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 背後で身長百八十センチがごろんと寝返りをうった気配がした。  仕事用のノートパソコンから顔を上げて振り返れば、本棚の中にあった漫画はほぼ全てが床に積まれ、スナック菓子の袋もあちこちに散乱していた。 「……おい、少しは片付けろ」 「腹減ったー。腹減って動けないー」 「散々菓子食っといてまだ食うのかよ!」 「育ちざかりなもんで」  果たして二十五歳は育ちざかりなのか。  ツッコミたい気持ちを抑え、俺は食い散らかされたスナック菓子の袋を片付け、漫画を本棚に戻していく。  その途中で、ふと、だらけきった幼馴染の神がかった綺麗な顔を見下ろしてみた。  すると、すっかり安心しきって気の抜けた顔が、きょとんとこちらを見上げて目が合った。  なんとなく、柳之介の顔の横にあぐらをかいて座り込む。寝乱れて顔にかかっている前髪を指でつまんでどけてやると、柳之介は機嫌が良い時の猫のように目を細め、俺の指の動きを眺めていた。 「……何食いたい」  その質問に、柳之介はがばりと起き上がった。動けないんじゃねーのかよ。  思わず形の良い額をひっぱたきたくなったが、ずいっと迫ってきたとんでもなく整った顔に圧倒されて何も言えなかった。 「オムライス! たまごとろとろのやつ! あと唐揚げとーポテトサラダとー、カニクリームコロッケも食いたいなー」 「手間かかるもんばっかりリクエストすんじゃねえ!」 「あは、やっぱ駄目?」  柳之介はまるでいたずらがばれた子供のように、照れくさそうにはにかんだ。  俺は思わずそれから目を逸らす。  白状すると、昔から俺はこの顔に弱い。  小さな頃のこいつは本当の本当の本当に、天使だった。  いつも俺の後ろをついて歩いて、振り返ればにっこりと、至極嬉しそうに笑うのだ。  全てをなげうってでも守ってやらねば、助けてやらねばと幼い少年に決意させるほどの極上の笑みを浮かべるのだ。  今や、俺よりでっかくなって、天使だった頃の面影なんて欠片も残っていないというのに。  俺は未だに、条件反射的に、こいつのこの顔に弱いのだった。 「……オムライスは作ってやる。唐揚げとポテトサラダは惣菜屋ので我慢しろ」 「カニクリームコロッケは?」 「……明日」 「よっしゃ!」  この天使時代を彷彿とさせる無邪気な笑顔。『立花柳』の仕事用の笑顔なんて、比較にならないほどの素直できらきらとした極上の笑み。  もし直視していたならば、俺はカニクリームコロッケも今日の晩飯に出していたことだろう。  親からは「俺は柳之介の筋金入りのファンだ」と揶揄われる。だが、俺はそれをいつも否定する。  何故なら、俺にはファンと呼ぶには根が深すぎるという自覚があるからだ。  微笑み一つで絆されるなんて、最早、信者だ。信者。  柳之介の姉三人衆も、俺がこいつの顔を見捨てられないと知っていて、俺を弟の世話係に任命し続けているのかもしれない。  いつかの未来。柳之介が自立して、俺が世話係を卒業するのが先か、それとも俺がこいつの顔の信者を卒業するのが先か。どちらかはわからないが、俺達の人生の道も分かれることがくるのだろう。来てくれ、頼むから。 「なーなー」 「あ? なんだよ」  部屋着の裾を引っ張られ、俺は無意識に柳之介の方を見た。見てしまった。 「あのさ、今まで、ありがとな。めっちゃ助かってたの、マジで感謝してるから、俺。んで、その、えっと……多分迷惑かけまくると思うけど、これからもよろしく!」  先ほどは辛くも避けた天使の笑みが、俺の心臓にクリーンヒットした。 「……おう、まかせろ」  俺がこいつの世話係を卒業するのが先か、俺がこいつの顔の信者を卒業するのが先か。  ――そんなもん、どっちも一生訪れない未来のような気がする。  なんとも恐ろしい想像に身を震わせると、俺は後をついてくる柳之介と共にキッチンへと向かったのだった。
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