水辺の白鳥

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岸辺に繋がれた船の底が風にゆるやかな弧を描いて、湖畔の水面を微妙に波立たせた。 ずっと裾に気を使っていた。 座る時も歩く時も、お辞儀をする時も、両手の指を揃えて裾を持つ。少なくとも、少しでも人目があると思われる場所では。 だけど私がいま足を踏み下ろすのは豊かな緑色の芝で、目線の先には翡翠色の湖が広がるばかり。見渡しても見渡しても、人目はない。 ドレスの生地が透明な露や草の汁に染まるのも厭わず、ただ夢中で歩き続けて、ここに辿り着いたのだ。 ぼんやりと翡翠色を眺めていると、視界の端に白いものが動く。城が庭に飼っている白鳥たち。 おいで。 心の中でそう呼びかけて、両手を合わせて二、三度軽く叩いてみる。 白鳥がこちらを見たので、慣らそうとして姿勢を少し前に屈めた。その拍子、留め具が緩んだのか、首から下げたネックレスがするりと胸元を逃げようとする。 「あ」 慌てて体を引っ込めると、ネックレスは呆気なく私の胸を離れ、ぼちゃんと重厚な音を立てて水面に吸い込まれていった。 「わ、あ。あっ」 バランスを保てない。 ぐらぐらと揺れるパンプスの平衡に、ついに上半身から水の向こうへ倒れ込もうとした、その時。 ふんわりと腰のあたりをホールドされた。不安定に揺れていた私の体は、何者かの体に背中からもたれかかる。 背後から伸びた腕。 太さはないのにたくましい筋肉が、二の腕まで捲り上げられたシャツの下に覗いている。 男の人? 警戒を抱くこともできず、反射的に振り向いていた。私の濃いブラウンの長い髪がそのゆるやかなカールに合わせ、ふわりとその人の胸を打つ。 私の体を支えつつ無表情で立っている、黒髪黒目の綺麗な青年。 「……リュシアン」 「危なかった」 その名を呼ぶ。彼はじっと私の瞳を見下ろしたまま、フウと小さなため息を吐いた。 「主役その人が式典を抜け出した上に、湖に落ちそうに。来賓の方々へのお妃の誤魔化しにも限度があります」 「つまらないのよ」 「祝福の席です。貴女を祝うための」 表情一つ変えず私の言葉に応じる彼が、どういうわけか突然憎くなって、私は無理にその腕を解こうとした。 拘束は案外あっさりと解かれる。拍子抜けしていると、リュシアンは長い脚を折って、芝の上に屈みこんだ。顔をぎりぎり水面まで近付けて、右手を湖の中へ伸ばしている。 「どうしたの?喉が乾いたの」 「僕は犬ですか」 彼の行動の本当の意味を理解している私は、ひとまずそうとぼけてみる。 ぼんやりとその背中を眺めていた。ゆるやかで綺麗な曲線……curve、昨日の国語の授業で私が綴り方を間違えた単語、がその形容にぴったりだ。 彼の通った鼻先が水面を掠る。ちょっと息を吐いている。ズボンの膝は露に濡れた芝に強く擦り付けられて、きっと草の汁に濡れている。ネックレスはなかなか見つからない。 ふと、そのスーツが誰に買い与えられたものなのか気になった。 「そのスーツ、誰があなたに買ったの?」 疑問を素直に尋ねてみても、答えは返ってこない。 彼の右腕が上腕のあたりまで水面に消えて、シャツの袖はもう半分あたりまで水に浸かっている。 「シャツは?」 声は返ってこないので、かわりに手を伸ばした。 ホワイトのシャツがズボンに織り込まれているところを指でなぞると、動じなかった曲線が少し揺れる。 「ベルトがバーバリーだ。ねえこれ、女性物じゃないの……」 ベルトの線に沿って腰をなぞる。 ゆるゆる、ゆるゆる。何度もなぞった。 その時、鈍い水の音を立てて、リュシアンの右腕が水の奥からついに持ち上がった。 その指先に絡んでいるのは、輝くばかりの天然真珠の連なり、手のひらにはネックレストップ・大粒のダイヤモンド。 顔を長く水面に近付けていたせいで、少し息の上がった彼の瞳が二つ、無感動に私を見つめていた。 漆黒の瞳。深いブラックは灯りのない闇、そのもの。 ぐっしょりと濡れたシャツの、二の腕をそっと掴んでみる。 指先をするすると移動させて、彼の手に絡まる宝石の連なりを掬うように持ち上げて。水に濡れて鈍く光るそれを、彼の首にぐるりと巻きつけてやった。ネックレスは重みを持って、白いシャツの胸を濃く濡らす。 「首輪だ」 言ってみる。 リュシアンは黙って片膝を芝に下ろしたまま、私の言葉を受け取っている。 「首輪みたい。あなたはお母様たちの犬だから」 「お妃への侮辱ですよ」 「お妃、ご夫人、女王。一体何人に飼われるつもりなの」 「ソフィア」 突然そっと抱き締められた。 動作の柔らかさに反して意外にきつく背中を抱かれ、痛みに少し眉を顰めてみる。 「痛い」 「あと三年です。三年後、貴女の元に帰ります」 淡々とそう言ったはずの彼の声が、少し震えている。 顔が見えないので、その表情を知ることはできない。 「東洋人の運命(さだめ)ね。あなた、どうしてこんな異国に流れ着いてしまったの」 私はうたうように、そっと呟いてみる。 リュシアンの私を抱く腕が気持ち、力を強くした。 原因はわからない。この国の女たちは、夫や恋人を愛することとは別に、必ず、「東洋人」に惹かれるのだ。 奴隷の輸入が咎められる風潮が世界に徐々に広がり始めると、かつて少ないながらも国内に存在していた東洋人は、この小さな国から次第に姿を消していった。 極秘でその存在を確保することができる、王室や富裕層の家を除いては。 王室の女達の歪んだ愛、支配。 そんなものを全て、美しい東洋人の彼は一人で一切、受け止めている。 リュシアンは五年前に私の友人だった。 庭へ出ればいつでも水辺の手入れをする彼と出会えた。使用人という立場ではあったものの、彼は私に窮屈で大仰な扱いをしなかったから。よく白鳥に餌をやったり、花を摘んだり、″対等に″。幼い子ども同士の関係らしい遊びをしたのだ。 その友人がいつの間にか、母や親族の女たちの犬にされていたことを、使用人たちの噂話を聞き、私は偶然知った。 彼の美しさは、東洋の魔性? 「三年後に解放してあげる。使用人の仮面も私が剥がしてあげるから」 彼の薄い桃色の唇を舐めるように見つめて、私はそう囁いてみるのだ。 end.
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