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「えみちゃん、今から骨密度の検査をするよ。直ぐに終わるから大丈夫だよ」
突然、降り注ぐように声が耳に届いた。
隣の老人が、車椅子の老女に話しかけていた。思わず振り返った私の視界に、老人が老女の手をさする姿が入り込んだ。何の反応もない。表情も無く、にこりともしない女性に男性は優しく笑いかける。
老人が私に気付き、老女に向けた同じ笑みを私に向けた。
「毎日接しているとね、なんかわかるんですよ。今日は機嫌がいいとか、悪いとかね。今は少し緊張しているんだと思います。だからね、こうやって手をさすって落ち着かせるんです」
ハハッと老人は笑った。
「......」
老人が握りしめた同意書をちらりと見て目線を逸らす。
「えみちゃんが元気だったころ、私のお腹の贅肉を心配して野菜ジュースを作ってくれたんです。私は野菜が嫌いでね。そのジュースをいやいや飲まされてました。でね、今は私がそのジュースを嫌がる妻に飲ませている。皮肉なものです。妻がこうなってやっと妻の大変さを実感するんです。妻の介護をしながら一つ一つね、彼女の愛情を思い知るんですよ。
でも同時に、その度に…、
…愛情を知る度に怖いんです。彼女を失くしてしまった先のことを考えると怖くて仕方ないんです…」
老人が老女の手をぎゅっと握った。私はただ老人の横顔を食い入るように見つめることしかできなかった。
「...私もこの間、医師に延命措置の話を伝えられたんです。答え何てでませんよ。いくら考えても何が正しいのか間違っているのか分かりませんでした。結局、どっちを選んでも苦しむんです。
ただ分かることは、えみちゃんがこの世から去った後も、多分死ぬまで、この選択が正しかったかどうか問い続けるんだなと言うことだけです。
…でもそれでいいんだと思います。それが私の役割で、私にしか出来ないことですから、だから…」
ぽたぽたと涙が溢れてくる。握りしめた同意書にいくつもいくつも染みが溢れてくる。
ふと、母の葬式の日を思い出した。親父が雨の中、車に送還される母親の棺を引き留め「まだ逝くな」と泣いた姿が浮かんだ。自分は親父に傘を差し伸べたが、傘を差し伸べたその行為が正しかったのかどうか分からなかった。
【END】
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