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零
──ぽた、ぽた、と赤黒い液体が額から顎を伝って垂れていく。それは床を濡らし極々小さな水溜りを作っていた。
腕が、痛い。
最早痛めつけられていた身体は痛みに麻痺し、小さな痛みだけが鮮明に思える程だった。青年は僅かに身じろぎその場から逃げ出そうと試みるがすぐに全身に走った痛みに顔を歪めその動きを止めた。カシャンカシャン、と青年の動きに合わせて音を立てていた鎖の音が止むと室内はまた、静寂を取り戻す。
つま先立ちのような状態で天井から吊るされている青年の手首には強く鎖が絡まっていて、動く度にその鎖は音を立て、そしてその白く綺麗なはずの手首を締め付け赤く染め上げ穢していく。青年の白く綺麗な肌は全て晒され、所々が赤く染まっていたがその白さ故に痛々しい跡は嫌でも目立ち一層その色を際立たせていた。
その鎖によって封じられた青年の霊力。それは無力に戻った自分を強制的に実感させられているようで青年は小さく身体を震わせた。
結界が張られたこの離れは外から建物自体も見えないし、この場の音が聞こえることもない。そんな場所に、誰が助けに来てくれると言うのか。
まして、天の落胤だと言われた自分の味方をしてくれる人など今まで一度たりとも居なかった。その事実は青年の心を酷く震わせた。一抹の寂しさが青年の目を濡らしていく。
──ぽた、ぽた、と透明な雫が床へと落ちていく。それは朱殷に染まった小さな水溜まりに混ざっていった。
声を押し殺し、青年は静かに悲観した。
冷たく静かな部屋に青年の小さな嗚咽が響く。
その時。
目の前の扉が音も無く光とともに跡形もなく散り散りなり、光彩を放ちながらパラパラと落ちていく。
その輝きの奥で一瞬キラリと血紅色が見えた。その双眸と目が合う。真っ直ぐ自分を見つめたその黒曜石のような目は青年からポタ、と一滴目から滑り落ちた涙を見た瞬間その目を揺らした。
足早に次第に駆け寄るようにその人物は青年へと向かう。伸ばされた両手が青年の頬へと優しく触れそっと撫でた。
青年は驚いたようにその人物を呆然と見つめた。
美しく艷やかな漆黒の髪がその人物の肩から滑り落ちてさらりと揺れる。優しげな目は悲しそうに揺れ、その眉尻は少し下がって更に悲しそうに見える。
見た目は青年より少し年上に見えて、大人っぽく色香があって思わずじっと見つめてしまう。
痛みなど忘れて、思わず魅入ってしまうほど美しい目の前の男に青年は僅かに息を呑んだ。
「今、解いてあげる」
目の前の男は優しくそう言った。その声は聞き心地の良い中音混じりの低い声で青年の心を震わせた。生まれて初めて受ける優しさに青年の指先は震える。
剣を抜く音が聞こえ、青年はビクッと身体を震わせ鞘から抜かれた鮮やかな色の剣を見つめた。その姿を見て男は「心配しないで」と言う。
美しい血紅色が青年の目に映る。その剣は全体が紅く中心から外側に向かうにつれて透明度が高くなっていた。精巧な装飾がどれほどこの剣が高貴であるかを物語っている。
紅い閃光が一筋。瞬きする間もなく鎖がパラパラと落ちて小さな金属音達が辺りに響いた。ストン、と踵をついた青年は久し振りに立ったせいで一瞬のうちにカクンと膝を曲げ倒れそうになる。
ぎゅ、と強く腰を抱かれる。倒れそうだった身体は強い力で支えられ頭一つ分ほど差があったらしい男の胸に抱かれた。
一瞬の出来事だったが男は少し青年を離し、腰を支えながら「手を出して」と青年に言った。
恐る恐る両手を差し出した青年に男は右手を翳し、淡い光を放つと両手首にはめられていた枷を粉々にした。フッと青年は霊力が戻ってくるのを感じた。
手首を見つめていた視線を勢い良く目の前の男に向けた。青年の目はキラキラと輝いて見える。淡く薄いその青い瞳は硝子細工のように美しい。
男は、青年の首筋に触れた。血のように紅いうなじから左右に広がっているような一本の蔦のような痣は首を一周する前に中心で途切れていてその途切れた先は左右対称に少し下を向いている。その色のせいかその痣は血管のようにも見えてその柔く雪のように白い肌に良く映えて痛々しくも見える。
男の目が紅く光ったように思えた。
そっとその痣をなぞるように撫でると青年はビクッと身を揺らす。それに気づいた男は素早くその手を首から離した。優しく青年を横抱きにすると青年は慌てたように目を揺らす。頬は少し紅くてその姿はどこか恥ずかしがっているようにも見えた。男は優しく微笑み口を開く。
「私の名は黒 暁雪。黒城門派黒氏の暁雪だ」
「黒、暁雪……」
その名を心に刻むように青年はゆっくりと男の名を繰り返す。その様子に男──黒暁雪は更に笑みを深めた。
「君の名前を教えてくれないか」
その問いかけに青年は言葉を止めた。恐る恐るこちらを伺うように黒暁雪を見上げた青年は一瞬躊躇して、それからゆっくりと口を開いた。
「白、月」
その名を聞いて黒暁雪はぎゅっと青年を抱えていた腕に力を込めた。そして柔らかく微笑みながらその名を口にする。
「白月」
青年──白月は呼ばれたその名に一瞬口を噤んでそれから眉を下げ困ったようなそれでいてどこか嬉しそうな笑みを浮かべた。
二人はゆっくりとその場から立ち去る。
久し振りに感じる外の空気に白月は心を震わせ、そして夜風の寒さに思わず黒暁雪の胸元へと身を寄せた。それに応えるように黒暁雪はまた抱えている腕に力を込め白月を落とすまいと強く抱きかかえた。
月輝く澄んだ夜、二人の男はもう一度出会った。
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