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「風よ…」
呼びかけに応じて、風がそよぐ。
ヒワの長い髪で遊ぶ。
空渡りにとって、燃える危険がある髪は、短く切り揃える習わしだ。
髪を伸ばすのは、唄うたいの証。
唄うたいとは、その唄声で風を呼び込み、渡りの無事を願う祈り役。
朝陽に照らされ。
風が。
弄んでいた衣の裾を手放して。
ひょいと。
ひと振り。
手をあおぐ。
来た。
頬が。
風を感じる。
「どうか風よ。
同胞の旅路に寄り添い、
包み込み、
危機を退け、
豊かな恵みを」
風が。
昇っていく。
上空に。
東風の帯ができる。
「風よ。
西の地へ」
最後の言葉を合図に。
気球が上昇していく。
「行ってきまーす!」
両親が手を振る。
ゆっくり昇っていき。
上空の東風を捉えると。
どんどん速度を上げていく。
「いってらっしゃい!」
見送りの子どもたちと一緒に。
西の空を見ていた。
「行っちゃったね」
妹のアトリが、裾を掴む。
「うん」
その時。
ふと。
見えた。
西の空高くに鎮座する風が。
こちらを向いた。
小さく。
ほう。
と。
ため息をついた。
「風…?」
東風が一瞬止まるや。
「突風だ!」
西の空から。
叩きつけるような風が吹く。
「ふせろ!」
子どもたちと一塊になり、地面に伏せる。
髪が巻き上がる。
「父さん、母さん!」
気球の影が揺らぐのが見えた。
立ち上がった。
「ヒワ?!」
妹が足にしがみつく。
「どうか落とさないで!
谷風よ、緩やかに、
そばに寄り添って…!」
唄う。
押し返されながらも。
風の中に立ち。
髪を躍らせる。
「風よ…!」
しばらく吹いた風が。
ようやくおさまった。
気球の影は持ち堪えたようだ。
順調に進んでいく。
「よかった…」
髪が肩にサラリと落ちる。
でも、東風の帯は切れてしまった。
西の高い空を見上げる。
陽の光に照らされ、その切長の目で、こちらを見つめていた。
「風よ。
何があったのですか」
問いかける。
風は、何も語らず、ただ腕を伸ばして。
ヒワの頬に触れ。
髪を耳にかけ。
背を向けるだけだった。
その耳に。
「大変だ!!」
里の方から声が飛び込む。
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