東風

1/12
前へ
/12ページ
次へ
「東風を呼べ」 私を呼ぶ人はいない。 「はい」 ヒワは、その長い髪をそよがせる。 足を綺麗に組み、すいと背を伸ばす。 鼻から冷たい空気を吸い込み。 朝陽の昇る東の空を見つめる。 今年最初の東風。 遠い天空に、その裾を漂わせる風。 「風よ…」 ヒワの口が、滑らかに唄いだした。 人がまだ、大地の果てすら知らない時代。 神が世界を支配していた頃。 とある大陸。 海から遠く離れた山の中。 森の深く。 木々の合間に。 空渡りの一族はいた。 川沿いに天幕を張り巡らせ、里を作り、渡りの拠点をいくつも築いている。 ヒワがいるのは、最も東の里。 冬は雪に覆われて、街からは忘れ去られたように隔絶する。 夏に蓄えた食糧と、少しの狩猟で冬を越えて。 今日は。 今年最初の東風を呼ぶ。 天幕を張った里から、川沿いに少し降ると、木々がなく開けた平地がある。 昔、川が氾濫し土砂が流れた跡だろう。 新しい木が生えないよう手入れをして、発着場にしている。 この里で冬を越した4組の空渡りが、最初の東風を待って、慌ただしく支度をしていた。 球皮の破れがないか確かめる。 ロープを手早くまとめる。 ガスボンベを積み込む。 炎を焚き、熱気を送り込む。 ゆっくりと。 色とりどりの気球が膨らんでいく。 「父さん、母さん。  気をつけてね」 渡り支度を整えた両親を、ヒワは見送る。 短く切り揃えた髪。 身体にピッタリと巻きつく、暖かい服。 一族の大人は皆、空渡りとして生きるのだ。 1年中あちこちを飛び回り、冬になると里に降りる。 子どもたちは里のみんなで育てる。 大きい子が小さい子の面倒を見て、老いや怪我で渡りを辞めた大人や、冬に帰り着いた大人が、渡りの仕方を教える。 12歳になったら、親や兄姉について渡りを始め、やがて独り立ちしていく。 しかし、唄うたいのヒワは違う。 「ヒワも、お勤め頑張って」 母が手を伸ばし。 唄うたいの証である、黒く長い髪を撫でる。 「うん」 ヒワは今日、14になった。 今年も気球には乗らない。 それは名誉なことなのだ。 ヒワには風が見える。 唄うたいの才能がある。 ヒワがこの里を守り、一族を守っているのだ。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加