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「じゃあな慈岳(しげおか)! 次も代返してやるから、いつでも頼めよ!」
バンバンと背中を叩かれ、慈岳 湊(シゲオカ ミナト)は痛みに眉を顰めた。
「うるせーなぁ。お前に代返頼むと稼いだバイト代がパーになりそうだぜ」
湊が不愉快げに眉間にしわを寄せても、酔っていい気持ちになった青野(アオノ)には通用しないようだった。
何がそんなに面白いのか。大口をあげて夜道に響き渡るような声でガハガハと笑っている。
その姿に、湊は諦めたようにため息を吐いた。
そもそも青野なんかに代返を頼んだ自分が悪いのだ。
どこの大学にも出席日数に厳しい教授はいる。その教授の講義を抜けるには、友人の少ない湊は青野に依頼するしかなかったのだ。
青野はガサツでバカな男だが、気安さとフレンドリーさだけは抜群で、あまり会話することのない湊の依頼も、酒を奢ってくれたらなんて言葉一つで平気で引き受けた。
ビールでも買って渡せば良いと思ってそのまま代返を依頼したのだが、まさかサシで飲みに行く事になるとは思わなかった。
その辺の大衆居酒屋に無理やり連行されたのだが、お喋りな青野は1人でずっと喋り続け、気まずい雰囲気にならなかったのがせめてもの救いだった。
「もう行けよ。終電なくなっちまうんだろ」
笑い続けている青野の尻を軽く蹴っ飛ばし、歩くように促す。
「あはは。あーうんうん。そだね、俺もう行く。慈岳の家は近いんだっけ?」
「ああ、徒歩圏内だからここでお別れだ。終電なんだから眠りこけんなよ」
酒が好きなくせに酒に弱い青野は、終始目をパチパチと瞬かせてはいる。
良い歳の男に不要な忠告だとは思ったが、座った途端その瞼は深く閉ざされそうな気配に満ちていて、思わず湊は口を出した。
「え〜なになに。慈岳見かけより優しいねぇ。心配してくれてんの?」
酔っ払い特有の間延びした喋り方で、青野が嬉しそうに笑う。湊は無言で背を向けた。
「え、なぁに。やっぱり冷てーじゃん、もー」
子供のような不満声に、片手を軽くあげるだけの挨拶をして、湊はそのまま歩き出す。
青野の不満声はまだ続いていたが、一刻も早くこの夜の街から抜け出したかったのだ。
暗闇から様々なモノが現れるのに気付いたのはいつの頃だっただろうか。
それは物心ついた時から既に始まっていた。
街灯から離れた路地裏のような、奥が見えない暗闇など当然に「いる」。
夕闇時の教室の影や、少し開いた押入れ扉の隙間。
普通の人が気にもしない、ちょっとした暗闇の中に奴らは「いる」のだ。
そして隙あらば湊を招こうとする。
おいでおいで。こっちへおいで。
ある時は女の細い指で。ある時は無数の幼子の手。
明らかに人間ではない造形をした何かが手招いている事もあれば、老人の枯れ木のような腕に絡め取られたこともある。
そして皆言うのだ。
こっちへおいで。おいで。おいでと。
もちろん湊は行かない。
そもそもどこに行くのかさえ分からないが、ロクでもない場所であるのは間違いないのだ。
だから誘われる度に聞こえないフリをし、気付かないフリをし、時には振り払って立ち去るのだ。
物心ついた時から今まで、そうやってやり過ごして来た。
それなのに。
(ちくしょう。年々勧誘がひどくなりやがる)
亡き母から貰ったお守り袋を握りしめながら、湊は携帯をタップし無意味にネット記事を開いた。
街の明かりに更に携帯の薄明かりが混じり、少し安心した気分になる。
歩きスマホと注意されても良い。自分の住むマンションまでの道のりに潜む暗闇に、目を向けたくないのだ。
大学生の一人暮らしで駅近のマンションなんて借りられる金銭的余裕は湊にはない。
駅から徒歩25分。薄暗い住宅街を歩きながら、まだ徒歩圏内なだけましだと言い聞かせる。
自転車であればすぐなのだが、以前ヤツらに車輪を引っ掛けられて転倒した嫌な思い出があった。
大いに転んだ湊を助け起す人のふりをして、ヤツらは湊の手を取ろうとした。
あれ以来夜道で自転車に乗ることはない。
「おいで。おいで。おいで。おいでよ」
いつもの言葉が聞こえる。けれど振り向かない。
意味のないネット記事に目をこらす。スマートフォンの淡い光がチカチカと瞬いた。
一瞬画面が変わったのかと思ったが、違う。
ゾッと、血の気が下がる音がした。
住宅街に備え付けられた街灯の瞬きを、携帯画面が反射したのだ。
「おいおい、嘘だろ……」
軽い眩暈を感じ、湊は呆然と呟いた。
等間隔で並んだ街灯全てが、狂ったように点滅を繰り返しているのだ。こんな事は初めてだった。
帰る方向の街灯から順々に明かりが消えて行く。
今いる場所まで明かりが消えない内に、湊は駅前の繁華街を目指して猛然と駆け出した。
「なんでだ!今まで明かりにまで干渉して来たことなんてなかっただろ……っ!」
年々感じてはいた。
ヤツらが自分への距離を詰め出していることに。
けれどまさか、こんな強制的な事態が起こるなんて思いもよらなかった。
走りには自信があったが、街灯が消えるスピードはそれ以上に早い。
そして、すぐ目の前の照明が消えた。
「おいで。おいで。おいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいで」
耳元に生暖かい息がかかる。
背後から腕を取られ、肩を掴まれた。
蹴り出そうとした足は勿論、既にヤツらに捕まえられてピクリとも動かない。
冷たい汗が流れる。
そして背後に引っ張るように力をかけられた瞬間———————————
「離れろ」
聞き覚えのない、男の声が響いた。
「おい。聞こえてる癖に無視すんな。この主旨を心得て、急々に、律令のごとく行なえよ」
そして湊は、前のめりに倒れた。
解放されたのだ。
ドクドクと、血潮の流れる音を耳の中で聞きながら、湊は喘ぐように息を吐いた。
いつの間にか息をするのも忘れ、恐怖に固まってしまっていたようだった。
四つん這いになりながらも、なんとか立ち上がろうともがいていると、目の前にスニーカーがヌッと現れた。
助け起こそうと差し出される手が、以前の恐怖を蘇らせる。
湊は息を詰めながら、そっと視線を上にあげた。
この暗闇の中、まるで光を放っているかのようにその姿形ははっきりと見えた。
美しい男だった。
湊と同い年くらいだろうか。パーカーにジーンズといったラフな格好でありながら、男自身が放つオーラは圧倒的な存在感で満ちている。
人並みはずれて美しいのに、強い野性味を感じさせるのは狼のように光る金色の瞳のせいなのかもしれない。
いつまで経っても湊が手を取らない事に焦れたのか、男は視線を合わせるようにヒョイとしゃがみこむ。
そして人懐っこい笑顔で言った。
「よお、慈岳。久しぶりだな。会いたかったぜ」
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