ハザード

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 私は運転をしない。だから車を手放そうかという話があった。すぐ近くにカーシェア用の駐車場ができた頃だ。登録さえしておけば気軽に近くでレンタルできるならば、維持費をかけて自家用車を持たなくてもいいのではないかと思えた。でも今日のような急な時にすぐに使えたかと思うと、あのときに手放さなくてよかったと思う。  ただもしあのときにこの車を手放していれば、昭仁が彼女と親しくなることはなかったのかもしれない。この車があったことがきっかけで私たちは離婚に向かうことになったのだ。  昨年の夏、地震があった翌朝、電車が動かなかったから昭仁がこの車で隣の駅に住む同僚三人を乗せて会社に行った。彼女はそのなかの一人だった。  渋滞している。フロントガラスにあたる雨は、小さな粒になってはワイパーで落とされている。遅い時間なのに車が多いのか、事故でもあったのか。 「寝ていいよ」  運転席で前を向いたまま昭仁が言ったときに、前の車がつけたハザードランプの光がフロントガラスの雨粒の色を変えた。   「ハザード……止まってしまうのかな」    零れるように出た私の言葉に、 「いや、サンキューハザード。だから合流のところ抜けたら流れると思う」  そう言った昭仁の声は少し嬉しそうに聞こえた。  サンキューハザードは昭仁に教えてもらった言葉だ。合流や車線変更で自車の前に車を入れてあげたときに、前に入った車が二回ハザードランプを点灯させる。交通ルール的には誤用だけれど、ちょっとした心配りのサイン。この車の助手席でよく見ていたことを思い出す。  つまり、今もこの渋滞のなかで昭仁が他の車を自分の前に入れてあげたということだ。  男性の車の助手席に乗るのは昭仁が初めてだったわけではない。でもサンキューハザードのことを気にしたことはなかった。ゼロだったとは思わない、でも昭仁は圧倒的に多いのだ。いきなり点滅する二回のハザードランプに最初の頃は戸惑って少しだけ嬉しくなった。微々たることだけれど、それが自分のパートナーの優しさだと思えた。
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