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車窓より
私は県を跨ぐ移動をしている。住宅街を走り抜ける特急電車。車窓から外を眺める。家。家。家。長方形の建物が、みっしりと身体を寄せ合って、ひしめきあっている。線路との距離は目算で十メートルほどだろうか。こんな高速で走る電車がこんなに近くを走っているのに、どの家も、窓の開口はすべて線路へ向いている。隣家との隙間が全くないので、こちらを向くしかないのだろう。電車が通るたびに窓が鳴るのだろうな、と私は想像した。
事故物件。何らかの原因で前居住者が死亡した経歴のある土地や建物。事故物件の定義は場合によるが、自殺や殺人、文字通り事故死、近年では孤独死等も視野に入れられている。人間は長距離の移動が可能となった。家中の資産を物理的に丸ごと抱えても、問題なく移動できるようになった。居住地の頻繁な変更が可能になった。一生を賃貸物件を移動して過ごす者も居る。「家を建てる」「家を買う」需要はまだ枯渇してはいないが、難易度は高い。利便性の高い物件は競争が激しく、価格も高い。皆、一生に一度あるかないかの金額の買い物なのだから、慎重になる。自らが選んで決めた物件が事故物件だったら?賃貸はまだ逃げ場がある。引っ越せばいいのだ。だが、購入してしまっていたら?人にもよるのだろうが、多くの者にとっては悩ましい問題となるだろう。
電車は快調に走り続ける。元々停まる駅が少ないのだ。ごっ、と音をたてて電車が駅にさしかかる。私が、え、と思う間に電車は駅を通過した。思わず進行方向と逆へ顔を向けたが、電車はほとんど直線を走っているので、通過した景色は当然見えない。私は路線図を見て、通り過ぎたばかりの駅名を確認する。その名前をスマートフォンで検索した。まず画像がヒット。私は見間違いなどしていなかった。通過した駅には、ホームを貫くほど大きな樹があった。しかもあの駅自体、川の上にあるのだという。へえ、と思った。先ほどから、一度カットしたのにもう一度きちんと並べ直されたカステラのような家々を見続けている。余程土地がなかったのだろうか。そして、あんな大木を駅構内に配したのだろうか。なんだか違和感があった。
川の上に駅を配する例が他にないわけではない。珍しいのは確かだが、もっと大きな川の橋の上に駅がある例を私は知っていた。その近辺に暮らす者に「全国的にも珍しいんだぞ」と言われたので覚えている。ホームに降りることはしなかったが、停車中、なんだか不思議な心地がした。こちらの駅の川幅と比べると、先ほど通過した駅の川幅は、どうやら圧倒的に狭いようだ。そしてあの大木。私はスマートフォンを操作した。「御神木」というワードが出てきた。なるほど。どうやって生えているのかまでは分からないが、配したのではなかった。木の方が先に居たのだ。その上を線路が通ろうとした。切らなかったのだ。切れなかったのかもしれない。どちらにせよそれは英断だったと私は思った。
「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」という俗信がある。頭からすべてを信じている者は居ないと思う。私も信じていない。だが、頭からすべてを否定することもできないのではないだろうか。なんだかぞんざいに扱うことは憚られる。例えば、神社への参詣のように。占いのように。ジンクスのように。信じていないけど信じている。信じているけど信じていない。私は夜に爪を切ることもある。だが、もし、親の死に目に会えなかった時、一瞬、爪がチラつくのだろう。俗信となるほど浸透したこの言葉。昨今の社会で、「親の死に目に会える」のはどういう場合だろう。人間は、居住地の頻繁な変更が可能になった。祖父母、親、子、孫、これらすべてが別々に暮らしているというケースは、現代社会では稀ではない。これらすべての者がひとつ屋根の下で暮らしていた時代は過去になりつつある。出産という慶事ですら立ち会えないことがある。凶事は心情的になおさらなのではないだろうか。死の瞬間の直視は恐ろしい。
電車は走り続ける。私は車窓から外を眺める。家。家。家。事故物件には、自然死は含めない場合もある。病死。老衰。人間の死を全く体験したことのない土地、ひいては建物など存在するのだろうか。私たちはこの狭い地面に、二千年以上も前からひしめきあって生きているというのに。
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