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10. 母との時間
私は祖母の目を見つめながら、母に聞いた。
「おばあちゃん、瞬きしないね」
「もう、瞬きをする力が無いんだろうね。
看護士さんに聞いたら、目が乾燥するから、
水を少し含ませたコットンを目の上に乗せて
おいてあげるといいって、言っていたわ」
「そうなんだ...... でも、おばあちゃんの目、
キラキラしてる」
「不思議ね。でも、ずっと開けたままだと
疲れちゃうだろうから、少し休ませてあげ
ようか。そこの冷蔵庫にお水が入っている
から、取ってくれる?」
私は小さな冷蔵庫の中のボトルを母に
手渡した。
「これね、何も食べられないお祖母ちゃんの
為に、亨がお見舞いにくる度に買ってくるの。
世界遺産に選ばれた屋久島の名水なんだって」
「優しいね、亨おじさん......」
母は、この名水をカップに移し、
コットンを湿らせた。
「お母さん、少し冷たいよ」
そう言って、祖母の瞼を指で優しく閉じ、
その上にコットンをそっと乗せた。
そして、綿棒を取り出し、同じように水で
湿らせてから、祖母の乾燥した唇に丁寧に
水をふくませた。
その母の姿は、娘としての果たすべき最後の
役割を存分に噛み締め、残された時間を
惜しみながらも、悔いの無いように過している
ようだった。
母と娘という関係。
これは、お互い年を重ねるにつれて、
より強く、そして特別で大切な意味を持つよう
になるのだ。
「小雪とこうやって、
長い時間を一緒に過ごすのも久しぶりよね」
「そうだね...... 仕事を始めてからは夜も帰るのが遅かったし、結婚してからは時々しか実家に帰れなかったもんね」
「こう考えると、忙しくてなかなか取れな
かった、こういう小雪との時間も、
おばあちゃんからのプレゼントなのかも」
「本当、そうかもね。おばあちゃんが
頑張ってくれている時間、大切にしないとね」
いつの間にか、朱色に染まった光が、
窓に掛けられたカーテン越しに私の足元へ
差し込んでいた。
「おじさんたち、何時頃に着くの?」
「二人とも会社から直接向かう、って言って
いたけど、亨は19時頃で、聡は名古屋から
だから、23時を過ぎちゃうみたい」
「そっか......」
私と母は、願わくは叔父さん達が到着する
までは、せめて頑張って欲しいと、
祖母の手や足を擦りながら見守った。
「昨日ね、おばあちゃんの寝室に置いて
あったノートを見ちゃった。
幾つか俳句が走り書きされていたよ」
「そのノート、ママも見たわ。
最後の頁に『あいうえお』って何行も
書かれていなかった?」
「書いてあった......」
「この何ヶ月かは、文字を書くのも難しかった
みたいでね。ペンを持つと、手が震えるって
電話で言っていたの。きっとまた、
何とかして好きな俳句を書こうと、
一人で平仮名から練習していたのでしょうね」
「そう言えば、私が手紙を書くと、いつもは
返事を書いてくれていたけど、最近は手紙の
代わりに『届いたよ』って、携帯に電話が
かかって来てた。あの時は、『今は、番号を
押せばすぐに話したい相手につながって、
いつでも声が聞けるから便利ね』って言って
いたけど、手紙を書くのも大変だったのかな......」
「でもおばあちゃん、嬉しかったみたいよ。
小雪から手紙が届くと、電話口でママにも
読んで聞かせたりして」
私は祖母に、
よく写真を同封した手紙を送っていた。
なぜなら、前に祖母が『玄関の郵便受けに、
何も入っていないと寂しい』と言っていたの
を聞いた事があるからだ。
一人暮らしが始まって10年。
いくら週に何度かは、お茶のお弟子さんが
来るとはいえ、やはり一人は寂しいのだ。
「でもお母さんも、毎日2回の電話、
頑張ったよね。2年位は続けたんでしょ?」
「そうね。毎朝パパを送り出してから電話して、その日の横浜の天気と大分の天気の話を
して、夕方には、その日にあった事や、
おばあちゃんの体調を話して......
前に何度鳴らしても出ない事があってね。
あの時は心配したわ。でも次の日、『昨日はお茶会があるって言っておいたでしょ』とか言われちゃって......」
母はそう言いながら、小さく笑った。
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