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3. 涙の跡
19時前には家に帰り、亮が帰ってくる20時までに夕食の準備をするのが私の日課。
そして今日もいつものように、20時過ぎに帰って来た亮とお互いにその日にあった事を話しながら、食事をした。
「でね、どうしても、はずせない仕事があるから、一段落する8日から九州に帰ろうかと思っているの」
「大変だな。でも、お祖母さん、2、3日って言われているんだろ? 8日じゃ、遅いだろ」
「うん......。そりゃ、私も行ける事なら、
すぐにでも行きたいよ」
「仕事、誰かに頼めないの? もう一度相談してみたら?」
亮としては、私を気遣い、自分なりに選んでかけてくれた何気ない言葉だったのだろう。
しかし、私には、大切な命よりも仕事を優先させた自分が責められているような気がした。
他の人に簡単に任せられる仕事ではない。
また、納期を延ばしてしまうという事は、自分が謝れば解決する問題ではなく、クライアントやスタッフにも迷惑をかけてしまう事だと、十二分に解っているからこそ、今すぐに会いに行きたいのに行く事が出来ない自分が悔しかった。
この“どうしようもない”という気持ちを、目の前にいる亮に分かって貰えぬもどかしさを感じ、こんなふうに私が食事をしている間にも、祖母の様態が急変してしまったら、どうしようという不安にかられ、除々に冷静さを失っていた。
そして今まで精一杯強がって、自分の気持ちを押さえつけていた何かが弾け、一気にそれが涙となって溢れ出した。
戸惑う亮を前に、一向に止まる気配を見せない涙を、私は手で覆い、一人になろうと寝室へ行った。
声を押し殺そうとすればする程、感情が高まり、大粒の涙が頬を流れ落ち、体が熱くなっていくのを感じた。そして私は、ベッドの脇にうずくまって気が済むまで泣いた。
“祖母に死が迫っている”この事に対しての涙ではなかった。
枯れるほど流した私の涙は、祖母の為にしてあげられる事が何も無く、8日まではただじっとしていなければならない、“社会というルールに拘束された自分の無力さと情けなさ”に対するものだった。
しばらくして、亮が部屋に入って来た。
「力になってあげられなくて、ごめん......」
せっかく落ち付きを取り戻してきた所だったのに、そう呟いた亮の言葉が心に沁み、また目が涙でいっぱいになった。
そして大きな亮の胸に顔を埋めていた私が泣き疲れた頃、
「さっ、お風呂に入って、スッキリしようか」
そう言って、私の肩を優しくたたいた亮のトレーナーは、私の涙の跡がしっかりと付いていた。
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