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兼次と尚佐
その頃兼次は、尚佐の旅館を訪れていた。
「いやあ、生き返った、生き返った。良い風呂でしたよ。やはり年寄りになると、長い移動は疲れますな。船乗りには、鉄道は性に合わないようですな。」
突然訪れた兼次に、尚佐は少し驚いていたが、機会があれば直に祝宴の御礼をしたいと思っていたので好都合と思っていた。
「こんな田舎の旅館に遠くから良く来てもろうて嬉しゅうございます。楽しみは風呂と食事ぐらいしかありませんが、ゆっくりしていって下さい。」
「それはそうと、綺麗に整備された庭園と大名屋敷の様な豪華な築造、素晴らしい。内湯も良いですが、私は大浴場が好きです。最近改装されたのですかね。旅館の雰囲気と違って、西洋風の建具や照明器具が面白い。和洋折衷、趣(おもむき)を出してますな、これは結構評判良いんじゃないですか。」
「有り難うございます。祝宴に招いてもらった折、これが今日本で一番のホテルかと、目をキョロキョロしてましたとです。あの時華族の方々の話ば聞いてて、わしも教えられましたけん。いつまでも先代の財産に頼ってばかりだと、時代に取り残されていきますたい。大工の統領に、ハイカラな雰囲気にしたかと頼んだとです。昔かたぎなんで、断るかと思うとりましたら、土産話に尚子の踊りの話ばすると大喜びしましてね、昔から統領は、尚子のことが大好きでして、‘芸術家として偉か人達に認められた祝じゃ’言うて、請け負ってくれたとですよ。」
「尚子さんは、どんな人も好きにさせてしまいますからね。」
「・・・もう少しで夕飯になりますけん、それまで来られた御用件ば話してもろうてもよかですか。尚子のことで何かあるとですよね。驚きはしませんから、おっしゃってくださらんか。多分、えらい覚悟して来られたとでしょう?」
人間の度量とは、こういう時にこそ表れるのである。人の苦境を察する思いやりに、兼次も安心して荷を下ろすことが出来る。
「そう言って頂くと助かります。とりあえずこれから言うことは、尚佐殿も覚悟して聞いて頂きたいのです。」
尚佐は、兼次が心していることに気を遣って、一旦ひと息入れ、間を置いた。
「何と無く分かりますよ、西園寺殿・・・尚子とホセ様のことではないですかね。」
さすがこのような旅館の経営者。兼次は初めて会ったときから、尚佐が自分と似た察知や予感を持つ人物だと思っていた。
「・・・実はそうなんですよ。」
「ちょっと待ってくださいますかね。」
”おい、誰か、来てくれ。”
間も無くして仲居が現れた。
“すまんが、いつもの奴持って来てくれ。”
そして兼次に、尚佐なりの心配りを示す。
「どうですか、此処で一番の焼酎ですばい、一杯やりまっしょう。」
早速、天然木の応接台に酒とつまむ物が配膳され、2人は飲み交わし、ほど好く酔いが回ってきた。
「しかしまあ、若いのは勢いで行きますけんね、うらやましい限りですばい。それが、間違いば起こすこともありますけんね。」
すると急に、兼次は涙を流し始めた。そして、席を外して、畳に静かに頭を着けた。
「尚佐殿、まっこと、本当に、誠に申し訳ございません。私が責任を持って面倒を見ると言っておきながら、謝っても謝り切れません。」
一角の者から土下座をされてしまう。
しかし尚佐は、落ち着いていた。そして、兼次のところに来て語りかけるように言った。
「まあまあ、頭を上げて下さらんか。百戦練磨の武将でも、負ける時はあるとです。わしは、貴方のその潔かところが気に入って任せたとですばい。初孫たい、たまたまこんな世の中に生まれてきたとですよ。先々気の毒かこともあるとでしょうが、しかたなか。でも、わしは嬉しかですよ、よかよか。」
# ジージー・・・ リリリリ・・・
広がる長閑な田園風景、かすかに聞こえる虫の声。
# ワハハハ アハハハハ・・・
満月の夜が更けていく中、笑い声が聞こえてくる。月には微かに薄雲がかかり始め、平穏に時が刻まれていく。
「やっぱり分かっていらっしゃいましたか。」
「そりゃそうたい。この国を代表するホテルの偉か人が直々に来てくれたとですよ。市長さんが来るよか凄かことです。これからも宜しゅうお願いします。本当は行って見てやりたいとですが、西園寺殿の様に任せられる者がおりませんので。産まれたら直ぐ電報下さらんか。御祝ば送りますけんお願いします。」
「いえいえ、御安い御用です。やっと私の役目が果たせたことで安心しました。どんなことでも御申し付け下さい。」
「それでは話が納まれば、腹も空いて来られたとじゃなかですか。田舎のもんばかりですが、うちの自慢の料理を召し上がって下され。」
“お~い、御膳の用意。”
”は~い、畏まりました。”
その晩、2人の夕食も、引き続き笑いが絶えなかった。そして、そのまま寝込んでしまった。
# グアー・・・ グアー・・・
”まあまあ、お二人共遊び疲れた幼子の様だねぇ。”
兼次は、まるで久しぶりに旧友と再会したような気分だった。煌々とした満月に照らされている田畑、刈り入れ後の稲が点々と山積みになっていた。
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