退屈

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退屈

 それは嵐の前の静けさ、いや、既に雷雲は頭上に見えていた。  今や日本は、軍隊の暴走する国家となってしまっていた。大東亜の共栄という理想は、何処へ行ってしまうのだろうか。これは、太平洋戦争の日本軍の海外進出の大儀になったに過ぎない。日本軍の中国大陸への進出と経常的駐留は、列強諸国との深刻な軋轢(あつれき)を生み、中国政府軍との衝突が数々発生した。日本政府は、この暴走を止めることが出来なくなっていた。そしてついに、日本国内でもこの暴走が起こってしまったのである。二・二六事件。腐敗した財閥癒着の政治を打破し、天皇を中心とする軍事国家を建立する理想を掲げる。保守派の上層部に不満を持っていた革新思想の青年将校達が、千5百名もの兵隊を率いてクーデターを起こした。このクーデターは未遂に終わったが、結局、軍の力を使って収束せざるをえなかった。  また世界に於いても、特に欧州で、世界大戦への序曲が始まった。第一次大戦後、ヴェルサイユ条約で非武装とされていた地域、ラインラントに、国家社会主義ドイツ労働党、ナチス党で政権を取ったアドロフ・ヒトラーの統率するドイツ軍が進駐する。この進駐は、ドイツとフランスの一触即発の危機をもたらしたが、幸い武力衝突を起こすような事にならなかった。しかし逆にこの無事に終わったことは、ヒトラーの強行的な対外進出の足掛かりとなってしまう。また、これまで軍備強国のバランスを保つ役割をしていた軍縮条約が失効又は破棄する国々が現れた。世界大戦以前の軍備拡張時代が再開したのだ。  ホセの祖国スペインでも、大変な動乱が起こっていた。革命以後、社会主義国家となったソビエト連邦が支持する左翼の人民戦線政府軍とドイツ、イタリアが支持する右翼のフランコ将軍率いる反乱軍、両軍の壮絶な内戦が始まった。この内戦は、その後の第二次世界大戦の様相を呈していた為、第二次世界大戦の前哨戦といわれる。  米国を除いて、欧州、亜細亜の有力諸国総てが、不思議な力に導かれるように戦争へと突き進んで行く。 「宮本社長。日本屈指の演劇場、日本T演劇ホールとの定期公演契約の件ですが、ちょっとお話して宜しいでしょうか。」  宮本は、フラメンコ楽団の大成功に乗って財閥北畠の資本支援を受け、本格的な興行会社を立ち上げていた。残念ながら子供が出来た尚子の舞踏は一時休止となったが、それでも、楽団の名声が地方各地でも広まり始めた。そこで、フラメンコに興味を持った若い女性を公募し、舞踊団を結成しようとしていた。勿論、舞踊団全体の構成、演奏内容はホセの指揮の下で行われた。ダンスホールは経営が安定したこともあり、経理総括だった辻に一任した。そしてまた、次なる事業拡張に乗り出し、現在の台湾である台北と中国、満州への事業進出を決めていた。 「そうだな・・・看板の舞踊団の公演スケジュールがどうなっているか見せてくれないか。」  T演劇お抱えの人気舞踊団の公演日程表を手に取った。 「土曜日が、定期公演日か。それでは、うちは木曜日を公演日に出来るよう交渉してくれないか。尚子様がいれば、勝負して金曜でも良いが、今は確実に常連客の確保に努める。」 「分かりました。明日早々に、ホール事業営業部に契約内容の交渉にかかります。」 「それはそうと海堂君、君が目標にしている楽団の欧州進出が一時延期になって本当にすまない。」 「いいえ、大丈夫です。機会はこれからもあるのです。社長の許しが出れば、直ぐ調査に参りますから・・・しかしホセの祖国スペインが、内戦状態になってしまうとは気の毒なことです。」 「ああ、本当にそうだな。彼は、いつかは祖国へ帰るということを言わなくなった。欧州は、これからどうなって行くのだろうか。やはり、(第一次)大戦後の対応が不十分だったような気がするな。世界恐慌が元凶とはいえ、敗戦国を追い詰めてしまった。結果、ドイツは極右翼、ヒトラー率いる全体主義軍事国家へ走り、欧州の脅威となった。」 「宮本社長、政治の話は控えられた方が良いですよ。これまで数々の政治的思想をした者が、治安維持法違反や不敬罪として捕らえられていますから、ところで、尚子様のご様子を見て参りましたのでお伝え致します。」 「元気にしてるかな。生まれてくる子供の認知の件も、西園寺オーナーの御力で丸く納まった。尚子様も、これで安心して出産に臨めるだろう。天才の宿した子はやはり天才だろうからな、十数年後が楽しみだよ。」 「随分気が早いですね。確かにお腹が大きくなってきたのが分かります。それで大変元気にしていらっしゃいますよ。あと舞踏から暫く離れておられますので、退屈なようです。資料室の書物は全部読み尽くしておられますし、フラメンコの映像も1コマ毎に場面を覚えていらっしゃって驚きました。」 「アハハ、そりゃ相当の退屈具合だな。今度隙を見つけたら、会いに行ってこよう。少しは、退屈のお相手になるだろうからな。それから、うちの車と運転手を出してあげなさい。裏の浜辺以外にも、気晴らしに野山へ弁当を持って遊んで来るよう勧めなさい。緑の良い空気を吸ってくることは、母体とお腹の子に良いことだろうし、そしてまた、ホセもよく続くよな。」 「そうですね。舞踊団の結成準備で、毎晩遅くまで訓練と公演内容の設計、打合せで疲れているのですが、必ず尚子様の顔を見に来て、脚を揉んだり、背中や肩をほぐしてあげていますからね。日本の殿方には考えられない気遣いですよ。」 「海堂君、何か言いたげな感じだな。男が召し使いの様に女性の身体をほぐしてやるなんて、恥ずかしくて出来る訳無いじゃないか。」  すると海堂は、宮本からわざと目線を逸らして、上目遣いに言った。 「いえ、別に何か言いたい訳ではありません。ふと頭に浮かんだんです。日本と欧米諸国の男の文化とは、こうも違うものなのですね。」  そんな尚子とホセの様子を憩いの会話にしている頃、兼次が、身篭っている尚子のところを訪ねていた。そこは、住まいとして改装した、南側のホテルの1室であった。
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