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私には小学校からの幼馴染がいます。もともと、あまり話をしないタイプの彼でしたが、境遇が似ているということもあり、よく二人でいることが多かったように思います。
私は開業医の息子で、父親が医者、母親が看護師。彼も開業医の息子で、父親も母親も医者です。だから、両家の親は、息子にはぜひ医者になってほしいという期待を幼いころからかけていました。
私も彼も自頭はいい方でしたので、全体的に見ると成績は悪くはないのですが、医者を目指せるレベルかと聞かれると、微妙でした。だからというのもあるのですが、どちらの両親も子どもたちにさんざん勉強を強制していたのです。私は今では体罰と言われるようなことも父親から受けて育っていたものの、姉妹がいたため、厳しい親の範囲内にギリギリ入っていたと思います。ですが彼は、一人っ子だったため、甘やかされている部分もあるものの、勉強に関しては私よりもかなり厳しく指導されていると聞いていました。
月日は過ぎ、私たちは高校生になりました。小学校が同じなので、家も近く高校も時間が合えば、一緒に登校することもありました。この頃になると、自我が強くなってきて、親に対する反発心も生まれてきます。私は父親に対して「医者になんてならない!」と何度も喧嘩をしました。ですが、幼いころから「医者以外は人ではない」と言われ続けてきたこともあり、医者以外の人生を考えることはできず、葛藤していたのを覚えています。さらに問題なのは、私の偏差値が医学部合格には程遠いということです。色々な感情や焦りが渦巻いており、私自身余裕のない時期でした。
一方彼はというと、私の前ではポーカーフェイスだったので、本心でどう思っているかはわかりません。ただ、私より大変な状況に追い込まれているのではないか、とは何となく感じていました。
そして結局、私は一浪、彼は三浪して、それぞれ違う医学部に合格しました。ただ、彼を知る人から聞いた話ですが、彼は「鬱屈(うっくつ)した人だから、医者には向いていないのではないか」と思われていたみたいです。
確かに彼は口数も少ないですし、幅広い人たちと仲良くするためのコミュニケーション能力があるかというと、微妙なところです。友だちと言えるのは私ぐらいで、友だちの数は少なかったように思います。また、正義感が強く、何物も寄せ付けない雰囲気もあったので、初対面で彼とすぐに打ち解ける人はいなかったのではないでしょうか。
医者という仕事は、患者さんを選べるわけではないので、どんなタイプの人が来てもコミュニケーションをとらなくてはいけません。
また、横のつながりも重要ですので、医者同士も仲良くする必要があります。それなのに、コミュニケーションに不安のある人が、医者になってやっていけるのかというと、難しいところはありそうです。だから、「鬱屈(うっくつ)した人だから、医者には向いていないのではないか」と言われていたのでしょう。
そんな学生時代を過ごした私たちですが、無事に医者になってからも、二人で飲みに行っています。大人になったからでしょうか、それとも医者になれたからでしょうか、学生時代はじっと全てを我慢するような彼だったのが、私の前では本音を言うようになったのです。
「おー、吉田。遅いぞ」
先に居酒屋についていた彼は、ビールを片手に私の方を向いて手を振りました。私は、カウンターに座っている彼の隣に移動します。
「悪い悪い。ちょっと急患が入ってさ」
席に座ると、彼がビールを注文してくれました。私は児童精神科医として働き、彼は血液内科医として働くようになりました。お互いに苦労の絶えない毎日を過ごしています。
「急患ねぇ。ったく、医者になんてなるんじゃなかったよな。自分の時間を確保するのも一苦労だし」
「あはは。まぁ、そう言うなって」
私が運ばれてきたビールを手に取ると、彼はグラスを傾けてきます。私たちは乾杯をして、グビッとビールを飲みました。
「一人で飲む酒も美味しいが、やっぱり吉田と飲む酒もうまいな」
「なんだよそれ。まぁ、永井と飲むのは俺も好きだけどさ」
私がそう言うと、彼は嬉しそうな表情をします。
「研修の後とかさ、他の医者と酒を飲んでもうまくないんだよな」
「まぁ、あれも仕事の一環だからね」
「そうなると、ほんと医者って自分の時間がないよな。俺はいつかさ、山奥で自給自足をしながら、一人で生きていくのが憧れなんだ」
「山奥で自給自足か……」
そんな彼を、安易に思い浮かべることができました。
「確かに永井には合っているかもな」
「だろ! 人に合わせるのが嫌いだし。あ、でも、お前は時々俺のところに遊びに来いよ。旨いものを食わしてやるから」
「あはは、それは楽しみだ」
私たちは取り留めもない話をしながら、楽しい時間を過ごしました。ですが、話しが学生時代の時のものに及ぶと……。
「思い出すと本当に腹がたつ。俺は学生時代も本当はもっと遊びたかったんだ。それなのに、あいつら……!」
「永井……」
彼はそう言うと、残っていたビールを一気に飲みほしました。
「学生の時もさ、両親の気持ちはわかるけど、あそこまで俺を追い詰めなくてもよかったんじゃないのかって、いまだに思うからな。あの頃のことは、一生忘れられそうにない……!」
彼は怒気に満ちた目をして、もう一杯ビールをオーダーしました。
「まぁまぁ、永井のところはさ、両親とも医者だったから、どうしても一人息子のお前を医者にしたかったんだろ」
「しかしよぉ……」
そう言って、彼は言葉を濁しました。私が彼から直接聞いたわけではありませんが、三浪をしている時、両親の彼に対する干渉はすさまじかったそうです。浪人期間は三六五日、両親による行動管理がされ、予備校以上の勉強負荷を彼にかけ、彼は朝から晩まで勉強付けだったと聞いています。そんな状態を三年も続けたわけですから、その間のストレスは想像を絶するものだったのではないかと思います。
彼はことあるごとに「医者なんて辞めてやる」と言っていました。それは本心でもあり、でも辞められない呪縛のようなものに囚われていると本人も気づいていたのだと思います。
医者という仕事は、確かにやりがいのある仕事です。ですが、一度もミスをすることができない職業だと私は思っています。何百人、何千人と患者と話をしていれば、一人ぐらい失敗してもいいじゃないかと思ってしまいがちですが、患者からすれば、何百分の一、何千分の一の失敗だったとは思わず、一分の一の失敗だったと感じるものです。そして病気の種類によっては、そのたった一度の失敗で、命を落とすこともあります。それはもう、取り返すことのできない失敗です。
だから、医者は常に強いストレスとともに働き続けています。この仕事を本当に一生続けていけるのかと聞かれても、きっといくつになっても「はい」とは、簡単に答えられないでしょう。自分の精神をすり減らしながら働いているので、弱気になった時に、彼が言っていた「医者なんか辞めてやる」という言葉には、共感しかなかったからです。
その後も、彼と定期的に飲みに行き、彼は何回かに一回は、そういった不平不満を私に言うようになりました。そして、彼が三十八歳になった時、ある事件が起こったのです。
その日、夜に突然、彼から電話がかかってきました。
「えっ!? すい臓がん!?」
電話で知らされたときには、彼は既に余命六ヶ月を宣告された後だったのです。私は翌日、すぐに彼が入院している病院に駆けつけました。
病院に行くと、そこにいたのは、がりがりにやせ細った彼でした。腹痛と嘔吐で食事がとれず、170センチ、65キロだった体重が35キロにまで落ちていました。
「永井……」
「おう、吉田! 本当に来てくれたんだな」
ですが彼は、あっけらかんとした表情で、まるで居酒屋のカウンターで私を見つけて手を振る時と同じような感じで、迎えてくれました。
「本当に来てくれたんだな、じゃないよ! そんなになって……」
「あはは、まいったよ。まさか自分がこうなるなんてな」
彼は私の前だから無理をして明るくふるまっているのか、どうなのかはわかりません。ただ、本当に明るい声で話します。
「それで、手術はするのか?」
「いや、手術はしない。余生を楽しもうと思っているんだ」
「余生ってお前……」
「おちゃらけた吉田はどうしたんだよ。暗い表情すんなって」
「こんな時に明るい永井の方が変なんだ」
「そうかぁ? もしかしたら、人間余命何ヶ月ってなると、元気になれるのかもな」
「なんだよ、それ」
そう言いながらも彼が笑うので、私もようやく明るい気持ちになることができました。
「でもすい臓がんなんだろ? 手術をしなくていいのか?」
「まぁ、痛みがひどくなれば病院受診することにはなってるけどな。今のところ、する気はねぇよ。それよりさ、俺、いい事を考えたんだ」
彼はまるで、いたずらっ子のようにニッと微笑みました。こんな表情の彼を、私は今まで見たことがありません。
「なんだよ、いい事って」
「俺、医者を辞めて南国の島へ行こうと思ってる」
「はぁ!?」
突拍子もない発言に、私は思わず大声を出してしまいました。
「南国の島ってお前……」
「いい案だろ」
「いや、でもいつからそんなことを考えていたんだ?」
「さぁな。ずっと前からのような気もするし、今決めたって気もするし」
「なんだよそれ!」
彼は私をからかっているような言い方をして、会話を楽しんでいるようでした。これまでも、ポーカーフェイスの彼の本心がわからないと思ったことはありましたが、ここまで彼のことがわからないと思ったことはありませんでした。これが、余命六か月を宣告された人の生き様というものなのかもしれません。
「本当は退院したら、すぐにでも南国の島に行きたいんだけど、医者を辞めるにしても引継ぎとかあるから、すぐってわけにはいかないだろうな」
「……本気なのか?」
私がそう言うと、彼は真剣な表情で「あぁ」と頷いたのでした。
ただ、彼が病院を辞めるとなると、黙っていない人たちがいます。それは、彼の両親です。彼は結婚をしていないので、独り身という気軽さはあるものの、一人息子という肩身の狭さは、大人になっても顕在しています。
彼が退院をした次の日、私の家に彼の母親から電話がかかってきました。
「こんばんは、永井さん。お久しぶりです」
「吉田君。ご無沙汰しているわね。この前は、息子が入院していた病院までお見舞いに来て下さったのよね」
「あ、はい。思ったより元気そうで、安心しました」
「そうね。でも、そんなことはいいの。吉田君は聞いているかしら? うちの子、今日病院に退職届を出したの。しかもそれだけじゃなくて、引継ぎが終わったら、この土地を出て、南国の島に行くなんて言ってるのよ!?」
「はぁ……」
彼の母親は語気を強めて訴えるように言ってきました。ほとんど叫んでいるのと同じです。
「ねぇ、吉田君。息子を止めてくれない? あの子、吉田君の言葉なら聞くかもしれないし」
「いえ……でも、彼の人生なので」
「何よそれ。息子がどうなってもいいと言ってるの!?」
「そうではなくてですね。彼ももう三十八歳ですし。彼が自分で決めることだと……」
「あっそ、もういいわ!」
彼の母親はそう言うと、電話を切りました。この様子を見て、私は彼も本当に苦労しているんだなと、あらためて思ったものです。
それから二週間。一度で終わるかと思っていた、彼の母親からの電話は、その後も何度もかかってきました。毎回、ほとんど同じことしか言いません。ですが、彼の母親が私に言ってくるということは、彼もまた南国の島に行くという意思を曲げていないということです。彼の気持ちが本物なんだなと、私は確信しました。
「吉田君。お願いだから何とかしてちょうだい。あの子ったら、私たちが何を言っても聞く耳を持たないのよ」
私は彼の母親からの電話は、これで十回目だなと関係のないことを考えながら、話を聞いていました。二週間で十回の電話となれば、ほとんど毎日電話をかけてきているということです。
「ちょっと、吉田君!? あなた話を聞いているの!?」
「聞いていますよ」
日に日にヒートアップしていく彼の母親は、私にも怒りの矛先を向けるようになってきたように思います。
「だいたいあなた、うちの息子の友だちでしょう? この歳になって、医者を辞めて、南国の島に行くなんて無茶すぎるとは思わないの!? しかもあんな体で!! 本当に息子のことを思っているなら、あなたは止めるべきよ!」
感情的になっているものの、彼の母親の言い分も理解はできます。私も初めて聞いた時は、余命宣告をされてから南国の島に移住するなんて、どういうつもりなのだろうと思いました。もし、自分が彼の立場だったら、おそらくそういった行動には出ないと思います。私には、妻も子どももいるので、守るべきものがあるという点で違いがあるから、というのもありますが。
ですが皮肉なことに、彼の母親が渡しに電話をかけてくるたびに、彼のことを応援したいという気持ちが強くなっていったのです。私も彼は自由に生きるべきだと。
「お母さん。申し訳ございません。私ははやり、彼の意思を尊重したいと思っているんです」
「何よそれ! 息子が不幸になってもいいって言ってるの!?」
「そんなことは言っていません。彼にとって、今幸せになる方法は、南国の島に行く事だと、私も思っているからです」
「はぁ!? あなた頭がおかしいんじゃないの!? この人でなし!!」
彼の母親はそう言うと、電話を切ってしまいました。彼の母親との電話が終わると、私はある種の疲労感に襲われます。ですが、彼はこういった家庭環境で、ずっと暮らしてきたんだなと思うと、彼が子どもの頃にポーカーフェイスで過ごしていたのは、自分の心を守るためだったのかもしれないと思いました。
そして私は、彼が無事に南国の島に行けることを心から願ったのです。
それから一週間、毎日彼の母親から電話がありました。そこでは初めからケンカ腰で話初め、最後には罵詈雑言です。ですが、ある時から、ピタッとその電話が鳴りやみました。私は正直、不思議に思ったのと同時に、ほっとした部分もありました。彼の母親からの電話は、私の精神的負担にもなっていたからです。
さらに三日が過ぎた頃、なんと彼から一通のメールが届きました。彼とは、病院にお見舞いに行ってから会っていなかったので、彼が今どういう状況にいるのかは知りませんでした。
『吉田! 母親の件では、迷惑をかけたみたいで悪いな。でも、もう大丈夫だ。俺は今、南国の島にいる。こっちに来て、三日が過ぎたが、島はすごく綺麗で、良い場所だ! 本当に最高だよ!』
私はそのメールを見て、彼の母親が三日前から電話をしてこなくなった理由を知りました。そして、彼が無事に南国の島に着いたことが何よりも嬉しかったです。
私はすぐに、彼に返信をしました。
『本当に南国の島に行ったんだな! 永井とは病室に見舞いに行ったきり会っていなかったから、心配していたんだぞ。お前の母親のことは気にするな。俺は、お前が幸せなら、それで十分だよ』
そう書き、彼に送りました。彼のことですから、そうそう近況報告などはしてこないとは思いますが、それでも連絡をしてくれたことが、私はとても嬉しく思いました。ですが、私が想像していた彼とは、違う行動を彼は取り始めたのです。
『南国の島の食べ物はうまいぞ!』
『こっちはまるで楽園のようだ』
『今日、でかい魚が釣れたんだ』
『お前もさ、医師の仕事なんて辞めたらどうだ?』
『人生は楽しいぜ!』
というような、短いメールが二週間おきに届くようになり、気が付けば毎日メールが来るように。毎日メールが来るようになってからは、私が返信しなくてもお構いなしに、メールが届きます。こんなことは、小学校からの付き合いですが、今まであり得ないことです。よほど南国の島での生活が肌に合い、伸び伸びとした生活を送っているのかもしれません。
そんなある日、長文のメールが送られてきました。
『今日はお前に伝えたいことがある。俺はここに来てから、自分が本当に膵臓癌七日に疑問を持ち始めたんだ。なぜなら、こっちに来てから、嘔吐と腹痛が収まり、普通の食事ができるようになったからだ。そっちにいる時より、身体の調子がすこぶるいい。薬のせいかとも思って、飲むのをやめてみたんだが、飲むのをやめたら、さらに元気になった。それで、南国の島から船に乗って通院している大学病院で、再度検査をしてもらうことにした。結果、俺の病状は、すい臓がんではなく、膵炎だってよ。驚きだよな! 余命半年っていう宣告を受けたのに、気づけばあと少しで半年になるが、俺は全く死にそうな気配すらないんだから。だから俺、もう少し真面目にこの土地で生きていく事を考えることにした。落ち着いたら、吉田を呼ぶから。絶対に遊びに来いよ! 山奥じゃないが、旨いものを食わしてやるよ!』
「永井……!」
私はこの時ばかりは、一人で泣いてしまいました。彼が余命半年ではないこと、南国の島で自由に生きていること、そしてこれから先の未来のことも考えていけるようになったこと。
彼にとって、南国の島は本当に肌に会っていたのでしょう。彼は南国の島に行って、命を得ることができたと言っても過言ではありません。
それに彼が言っていた『膵炎』は、強いストレスが原因でかかる場合があります。医者としてのストレス、家族とのストレス。彼はずっとそれらを抱えて、三十八年間を過ごしてきたのです。もし彼が、あの時、南国の島に行くと言い出さなかったら、きっとこんな未来は訪れませんでした。すい臓がんと診断されたまま、意味のない手術をしたり、膵炎をさらに悪化させて、本当に半年で命を落としていた可能性があります。
「永井……本当によかった」
私はそうつぶやき、その日は久しぶりに熟睡したのでした。
それからも、彼からの短文のメールは続きました。
『こっちは楽しい!』
『この前食べた野菜が絶品だ』
『あの肉はうまかった。お前にも食べさせたい』
『いつか遊びに来いよ!』
そう、メールが来るようになってから、二、三年が過ぎた頃、彼から遊びに来いというような言葉が書かれることが増えました。きっと向こうでの生活が安定してきたからなのでしょう。本当はすぐにでも行きたい気持ちにかられましたが、私もちょうど病院のことや、家族のこと、育児のことで、全く余裕がなく南国の島に行くことができませんでした。そして、彼が南国の島に行ってから余念が過ぎた頃、私はついに彼に会いに行くことにしたのです。
初めて降り立つ南国の島。彼から写真を送られてきていたので、景色は知っていましたが、自分の目で見るのとはやはり違います。そこは、自分の住んでいる場所とは全く違い、すべてが生命力にあふれている場所でした。
「おーい、吉田!」
景色を見ていると、元気な声が聞こえてきます。私は声のした方を振り向くと、驚いてしまいました。
「なっ永井……なのか!?」
「あはは! なんだよ、それ。たった四年で友だちの顔を忘れちまったのか?」
永井は豪快に笑いました。ですが、私が驚いたのは当然だと思います。永井を最後に見た時は、がりがりに痩せて青白い顔をしていたのに、今目の前にいる永井は、健康的に日焼けをし、筋肉粒々な姿になっているのですから。病気になる前、学生の時でも、何物も寄せ付けない空気と、やはりひょろっとした外見だったので、その頃のことなど見る影もありません。目の前にいる永井は、全くの別人と言ってもいいでしょう。
「忘れるわけないだろ! 忘れてないから、あまりの変わりぶりに驚いてるんだよ!」
「そうかぁ? そんなに変わったか?」
永井は自分の姿を見てから、首をかしげました。そんな仕草さえ、昔はしませんでした。ですが、健康そうに見える彼の姿を見て、ただただ安心しました。
「まぁ、いいよ。それより荷物を先に置きたいんだ。永井の家に寄らせてくれるんだろ?」
「あぁ、もちろんだ。ちゃんとお前に旨いものを食わせるという約束も覚えてるしな。楽しみにしておけよ」
「旨いものねぇ、それは楽しみだ」
確かに彼は私に旨いものを食べさせると言っていましたが、彼自身が料理をしているところは一度も見ていません。だから私はきっと、この島の美味しい料理屋にでも連れていってくれるのかと思っていました。
「ここが、俺の家だ」
案内された家は、平屋の一軒家でした。確かにアパートやマンションに比べると、一軒家の方が多い場所でしたので、たまたま買った家が大きかったというだけなのかもしれません。ですが、一人で住むには大きすぎますし、何より彼がここに一人で住んでいるというのも意外でした。
「広い家だな」
「まぁ、今はな。でもそのうち小さくなるさ、きっとな」
彼の言っている意味は分かりませんでしたが、彼がドアを開けると、中から若い女性が出てきました。女性は、私を見ると嬉しそうに微笑みます。
「この人が、吉田さん?」
「えっと……」
私は言葉に詰まりながら、彼を見ました。
「あぁそうだ。俺の小学校からの友人だ」
「まぁまぁ、彼から話は聞いています。遠いところから、ようこそいらっしゃいましたね。お昼はまだですよね? お料理もできていますよ」
「おぉ、そうか。手伝えなくて悪かったな」
「何言ってるの。あなたが手伝ったら、食材がダメになってしまうでしょ」
「酷い言い草だな。吉田もそう思うだろ?」
彼と女性は楽しそうに笑いながら、私を見ました。
「えーっと、この方は?」
「あぁ、そうか。紹介がまだだったな。こいつは由香里。俺の妻だ」
「えっ!?」
「妻の由香里です。よろしくお願いします」
由香里さんは、丁寧に頭を下げました。私も慌てて、頭を下げてお辞儀をしました。
「妻ってお前、結婚したのか!?」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
「聞いてない!」
私は思わず大きな声になってしまいます。彼からは、今でも定期的にメールを送ってきてくれていますが、結婚をしたということは一度も言っていませんでした。
「そうだっけ? あんなにメールをしているのにな! あはは」
「本当だよ。いつ結婚したんだよ」
「去年だよ。息子や娘もいるし」
「息子と娘!?」
私は再び驚きました。南国の島に来てから、驚いてばかりいるような気がしますが、私の知らないことが次々と出てくるからです。彼と離れていた四年間、頻繁にメールのやりとりをしていたので、彼のことは何でも知っている気になっていたのですが、私は彼のことを何も知らなかったんだと、あらためて思いました。
彼に案内されて家の中に入ると、ベビーベッドの上には双子の赤ちゃんが寝ており、その近くで一歳ぐらいの男の子が玩具で遊んでいました。私が来るまでは、おそらく由香里さんと遊んでいたのでしょう。
「永井がお父さんなんてな……」
「俺もびっくりだよ。でも、子どもって可愛いよな」
「……お前、本当にあの永井なのか?」
「なんで疑うんだよ」
「俺の知ってる永井は、そんなことを言うやつじゃなかったから」
「ま、向こうにいる時の俺は、そうかもな」
永井は床に座ると、一人で遊んでいた男の子を抱き上げて、自分の膝の上の載せました。
「ヒロ。俺の友だちが遊びに来たぞ」
永井はヒロの腕を持って、私に向かって手を振りました。私も床に座り、ヒロの手を握ります。
「こんにちは。ヒロ君。吉田です。よろしくね」
「だぁだぁ」
ヒロは嬉しそうに笑ってくれました。その姿を見るだけで、この家庭はとても暖かいんだろうなということがわかります。
「可愛い息子だな」
「あぁ、自慢の息子だよ」
彼がそう言うと、食卓に料理を並べ終えた由香里さんが、声をかけてきました。
「さぁさぁ、二人とも席に着いて。もう食べられますよ」
「ありがとう、由香里」
「いえいえ。あっ、ビールは出す?」
「ビールか……飲むだろ、吉田」
彼はニヤっとほほ笑みました。よく居酒屋で飲んでいた時の彼を思い出し、私は頷きました。
「あぁ、そうだな。永井には、まだまだたくさん聞きたいことがあるからな」
「おー怖い、怖い」
私たちは食卓に移動し、由香里さんが注いでくれたビールで乾杯をします。
「久しぶりに訪ねてきてくれた吉田に」
「完全復活をした永井に」
心地よいグラスの音をさせ、私たちは飲み始めました。初めは料理の話に花を咲かせていましたが、彼はぽつりぽつりと、この島に来たばかりの頃の話をしてくれました。
「こっちへ来たばかりの時はさ、とにかくあそこから逃げたいという気持ちの方が強かったかもしれない。正直、吉田に南国の島に行くって宣言したのが、きっかけだったところもあるし」
「きっかけって……じゃあ、やっぱりあの時は、計画を立てて言っていたわけじゃなかったんだな」
「あぁ、そうさ。でもさ、口に出してみたら、あぁ、俺は前から、あの場所から飛び出してみたかったんだなって、わかったよ。それに、南国の島に行くって、勤めていた病院と両親に伝えた時の相手の顔は忘れられない。吉田のところにも、何度もうちの家族から電話があったんだろ?」
「あったあった。すごい剣幕だった」
「迷惑かけたな。でも、お前は俺の味方を最後までしてくれた。それは、本当に嬉しかったよ。ありがとう」
彼はそう言って、深々と頭を下げた。
「そんな、やめろよ。俺は当然のことをしただけなんだから」
「はは、そうすぐに言えるところが、お前の凄いところだよ。俺は本当に、お前に出会えてよかったよ」
らしくない言葉ばかりを聞いて、私は少し居心地が悪く、むず痒いような気持ちになったが、嬉しくもありました。
「周りの反対を押し切って、こっちに来てみたらさ、本当にここはすごい場所だった。どんな人間も受け入れてくれるんだ。よそ者で、余命いくばくもない俺でさえ、受け入れてくれるんだからな。しかも、ここでの生活は自給自足。自分のものは自分で作って、後は物々交換をして過ごす文化が、いまだにある。何もできなかった俺を、この島の人たちはみんな親切に育ててくれたんだよ。おかげで今では、畑仕事も、海の仕事もできるんだぜ?」
「お前が?」
「あぁ、そうだ。ここに出ている料理も、俺が漁でとってきた魚だしな」
私は、先ほどから美味しいと思って食べていた魚を指さされ、どおりで美味しいはずだと思いました。
「あのお前が、一人前の島の男になったんだな。ということは、今は漁や畑が永井の仕事なのか?」
「いやいや、それは食べるためにやっているだけで、俺の仕事は診察だよ」
「……はい?」
一瞬、時間が停まったかのような感覚になりました。
「今、何て言ったんだ?」
「だから診察。この島には病院がなくてさ、由香里や島の人たちに言われて、診療所を作ったんだ」
「お前……医者を辞めるとか、俺に医者を辞めろとか言ってたよな?」
「はは、それは言うなって。あとで、島の診療所を見せてやるから」
そう言って笑う彼は、小学校の頃に、たまに見せてくれた笑顔と同じでした。自信に満ちて、健康的で、幸せを感じて暮らしている彼。ここに来るまでは、病気はもう治ったと聞いていたものの、どうなっているんだろうという心配が残っていましたが、今の彼には心配をするところはありません。彼は本当にこの地に来てよかったのだと思います。
「お前本当に変わったんだな」
「そうか……もな。この島で思っていることを言わないというのは、相手に対しても失礼なことだとわかったというのもあるからな」
「へぇ」
また彼らしくない発言だなと思いましたが、彼が由香里さんを見てほほ笑み、由香里さんもほほ笑んだのを見て、察しました。
「で? 由香里さんとはいつ、出会ったんだよ」
「えっ! 吉田から、そんな話を振ってくるなんて珍しいな」
「お前が昔とは違うんだから、聞いて見たくなったんだ。それに、お前が変わった理由の大部分は、由香里さんのおかげっぽいしな」
私がそう言うと、彼は少し照れたような表情をしました。
「参ったなぁ……。吉田は何でもお見通しだな」
「お前とは長い付き合いなんだから、お前を見ればわかるさ」
「……由香里と出会ったのは、この島に来て一年も経っていない時だな。まだ、すい臓がんだと思っていた頃だ。自暴自棄になっていた俺を支えてくれた。だからもう、付き合いは長い」
そう言って、彼は由香里さんとの思い出を恥ずかしそうに、でも嬉しそうな表情で話しました。彼にとって由香里さんの存在は、それほど大きかったのでしょう。
「そういえば、両親とは連絡を取っているのか? 結婚のことも伝えたんだろ?」
私のこの一言で、ピリッとした空気になりました。
「いいや、伝えてない。それと親父は死んだ。母親は時音で開業医をしているらしい」
「えっ!」
私も結婚をしてから、地元を離れて暮らしていたので、知らない話だった。
「向こうからは連絡は来るが、俺からは連絡しないし、返事もしていないんだ。俺は地元に帰るつもりはない」
「あなた……」
由香里さんが、そっと彼の手の上に手を乗せました。心配そうに見つめる由香里さんと、彼は視線を合わせてから、彼女の頭をポンポンとなでました。
「悪い。変な空気にしちまったな」
「いや、いいよ。お前は心に物をため込みやすいタイプだったから。口に出せている方が、俺は安心だ」
「はは。さすが、児童精神科医だな。相手が子どもじゃなくても、心の動きが読めるようだ」
彼はそう言って笑うと、明るい雰囲気に戻りました。
その後、食事を終えた私たちは、彼に診療所に案内してもらいました。島で初めての診療所は、とても立派なもので、島の人の憩いの場としても使えるような建物になっています。
この診療所を見るだけで、彼がどれだけ島の人に信頼され、期待されているかがわかります。そしてそれは、彼自身もわかっているからこそ、この島の唯一の医者として働くことを決めたのでしょう。
あんなに医者を辞めたがっていた彼。医者を憎んですらいた彼。そうなってしまうのは、わかるのですが、私個人としては少し寂しい気もしていました。それが、遠く離れた南国の島に来て、再び医者の道を進んでくれた彼の姿を見て、私は何よりも嬉しく思いました。親の呪縛はあるかもしれませんが、私も医者の仕事に誇りを持っているからです。
私は南国の島に二泊三日滞在し、また来ることを彼に約束をして自宅へと戻りました。その後、さらに二年後、そのまた翌年と私は彼のいるところに遊びに行っては、近況などをお互いに話して有意義な時間を過ごしたものです。
そして、三度目の再会を終えてから、私が自分の病院にいると、電話がかかってきました。
「吉田。元気か?」
「永井!? どうしたんだよ、半年ぶりだな。電話なんて珍しいな。いつもメールなのに」
「いやいや、今地元に帰ってきていてよ、明日会えねぇ?」
「えっ!?」
なんと彼は、地元に由香里さんと子どもを連れて、実家に泊まりに来ているというのです。あんなに母親に対して抵抗があったはずなのに。
ですが、私はすぐにあの優しい雰囲気の由香里さんを思い浮かべました。きっとあの彼女が彼を導いてくれたのでしょう。
それからも彼は、時々地元に帰るようになり、その度に私に電話をしてきました。彼は私に会うと、母親に自分の病院の後を継げとうるさいから、いつも断るのが大変なんだよと、酒を飲みながら話してくれます。昔は、親に対して自分の本当の気持ちをぶつけることができなかった彼は、親と対等な位置に自分を置き、自分の意見を言えるようになりました。
彼は島に行って、自分の人生を百八十度変えました。きっとずっと地元にいたら、こんな人生を送ることはなかったでしょう。私は彼を救ってくれた、島と島の人たちに感謝の気持ちしかありません。
世の中が落ち着いたら、私はまた彼のいる南国の島に遊びに行くつもりです。
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