三月の青い面影

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 刺すような冷たい風はすっかり影を潜め、やわらかい春のそよ風がそっと頬を撫でた。  並木のほとんどがピンク色の花を咲かせている。青空に向かって自分の存在を誇示するかのように、桜どうしが枝を絡ませ、くっつき合っている。  向かいからは、紺色のブレザーにグレーのスカートを靡かせながら、弾んだ足取りで高校生たちが歩いてきた。皆、手に黒い筒を持っている。つやのあるそれは春の陽射しを跳ね返して、彼女たちの笑顔に明るさを添えていた。  何年か前は私も彼女たちと同じだった。ただし、ドロップが弾けるような心からの笑みを、浮かべることはできなかった。  あの頃はまだ青かったのだ。  革靴に履き替えた私は、昇降口を出ようとして彼に呼び止められた。 「良かったら一緒に帰らない?」  名前を思い出そうとして、心の中でポンと手を打った。  同じクラスの四谷(よつや)くんだ。私ともう一人誰か教室に残っていたと思ったが、彼だったのだ。  別に断る理由もなく、私はいいよと頷いた。  並んで歩き出すと、彼は遠慮がちに「えっと」と切り出した。 「牧田(まきた)さんも書記係だよね。これからよろしくね」  引きつった笑顔で言う。緊張しているのだろうか。  私と同じ世界の人間かもしれない。そう思えて、自然に顔が綻んだ。 「こちらこそ、よろしくね」  そう返すと彼も自然な笑顔になった。  それが、私と彼との出会いだった。  毎日同じクラスメイトと顔を合わせる以上、情報の伝達は早い。しかも高校生という若さも相まって、恋愛沙汰には目を光らせがちだ。同じ男女がよくペアになるというだけで変な噂が立つほどである。その好奇心を少しは勉強へ向けたまえ、と学力のさほど高くない私ですら呆れるくらいだ。  私と彼との仲も例外なく噂された。 「お前ら、付き合ってんの?」  デリカシーのない男子がにやにやしながら問いかける。  いやいや、直球すぎやしないか。返事に窮した。四谷くんとは毎日でないにしろ一緒に帰っている。書記係の仕事はいつも二人でこなしているし、それを知った担任の先生も、仕事を振る時は「二人で協力してね」と気を利かせてくれている。  付き合っていると言い切るのは違う気がしたが、付き合っていないとは言いにくかった。いや、言いたくなかった。  彼は彼で、見るからに不機嫌な目で「はあ?」と男子を見た。 「いやいや、仲はいいと思うけど。牧田さんならもっといい男子と付き合うでしょ。ねえ」  彼は大袈裟に見える動作で肩をすくめる。そんなこと言われて迷惑だよね、と申し訳なさそうに続けた。一連の動きがどこかぎこちなかったが、当時の私にはそれが演技なのかどうか判らなかった。  対して男子はつまらなそうに口を曲げた。 「じゃ、二人は本当に付き合ってねーの?」 「うん。ただの友達だよ」  今度は私が返事をした。「友達」の部分をいやに強調してしまった気がする。  四谷くんの目が少しだけ見開かれた。帰ろうかと言った彼の声には寂しそうな色が見えた。  否定すればするほど、こちらの意図とは異なる受け取り方をされてしまう。  疑念を晴らすには彼と距離を置くしかなかった。 「他の男子に嫌なことされてない? 大丈夫?」  校舎を出れば彼に声をかけられる。近くにいた女子の集団がこちらをちらちら見て何やら耳打ちをする。あれは隣のクラスの生徒たちだ。  今までに彼と話したことがぐるぐると頭の中を駆け巡る。それがひとつの小さな点に吸い込まれ、すっぽり収まると頭の中が真っ白になった。 「ごめん、これからは四谷くんと帰りたくないから」  目も合わせずに足早に去った。  走って、走って、とにかく走った。駅に着いたところで、膝に手をついて荒々しく息を吐いた。  私は何を焦っているのだろう。一体何から逃げようとしているのか。  真っ白になったはずの頭に彼との思い出が急に溢れだした。  体調不良で休んだ次の日に気遣ってくれたこと。国語の教科書を忘れた私に貸してくれ、そのくせ彼は自分が教科書を忘れたと先生に報告していたこと。私の字を綺麗だと褒めてくれたこと。  道端に咲く小さな花に喜んだこと、夕暮れの美しい空に感動したこと。  二人しか知らない秘密の蜜を啜っているとばかり思っていた。  けれど彼は違っていた。男子に揶揄されて、彼が先に否定したのだ。私だけが浮かれていた。  それなのに、裏切るように彼は話しかけてきた。  彼とはただの友達で、だから周囲からの誤解を解かなければならなくて。  彼に私との仲を否定されたことは、私にとっては都合がいいはずだ。  電車に揺られながら、あまりに鮮明な、けれども現存しない思い出に取り憑かれていた。そのせいで危うく乗り過ごすところだった。  どこまで行っても、桜、桜。  幾重にも折り重なる木々を後ろへ流しながら、私はぼんやりと足を動かしていた。  己の儚い生涯を寸毫も懸念することのない桜たち。  無邪気に花を擦り合わせ、笑い声を上げてさえいるように見える。  そこへ溶け込むような、手を繋いだ高校生の男女とすれ違った。  本当は、彼とこんな道を歩きたかった。  桜が咲き乱れる道を、彼ならどんなふうに進んだだろうか。  高校卒業後、彼に思い切って連絡してみたことがあった。二人だけという閉ざされたチャットルームでは彼は積極的だった。  あの小説が映画になるらしいよ。この前美味しい中華を食べたんだ。そういえば牧田さんもまだ地元にいるんだね。  彼は高校時代から記憶力が良かった。私の好きなものを、私自身も驚くほど憶えていた。学年でもテストの順位が一桁になるほどだったから、当然と言えば当然なのだが。 『ところで彼氏はできた?』  第三者の目がないせいか少し大人になったせいか、恋愛の話も出てきた。 『いや、いないよ』  送信するとすぐ「既読」の文字が吹き出しの横につく。 『そうなんだ! 実は自分もいない』  彼は文面上では一人称を「自分」と記していた。  この文字の向こうで、彼はどんな表情をしているのだろう。自分が私の彼氏になることを期待しているのか、私より先に相手を見つけてやろうとライバル心を燃やしたのか。 『彼女ができたらお祝いするね。私も彼氏ができたら報告するから』  気づけば文章を送信していた。パッと既読がついた。 『楽しみにしてるね!』  それ以降彼から連絡が来ることはなかった。  見栄っ張りで、意地っ張りで。  そんな自分から卒業したいと、何度願ったことだろう。  けれど私は、何ひとつ変わっていなかった。  彼の前では謙虚な自分でいたかった。相手からの好意に気づかない鈍感な人物像も悪くないと思った。  差し出された獲物に飛びつくのも、逃げようとする獲物を追いかけるのも、カッコ悪いと思った。  もっと話したいと、すぐにでも会いたいと、正直に甘えれば良かったのだろうか。  四谷くんの彼女になりたいと、思うままに吐露すれば良かったのだろうか。  こうなったのは、決してヤジウマたちのせいではない。二人きりの空間にいてさえ、素直になれなかったのだから。  彼のアカウントをブロックしたスマホが、もう愛しい人からの連絡に震えることはない。彼に彼女ができたことを祝福できない私には、ちょうどいい末路だ。  眼前に広がる桜たちでさえ、花びらを散らすことはしていない。満開に見えるが、まだ枝にしがみつく余力があるのだ。  それに対して私は、はらりと花びらを落とした。地面に弾けたそれはぽつんと小さな黒い染みになった。  ひとつ、またひとつ。  小さな点から始まったそれは重なり合い、私の頭の中を真っ黒に染めていった。
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