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  序.  清朝末期、上海。  まだ本当の意味で〈魔都〉と称されていた頃の上海――……  満月。陰気が膨らみ、この世ならざる者共がもっとも勢力を増す時分。  永劫の夜の静寂を切り裂き、無惨な悲鳴が谺する。  やがて夜闇を疾駆する三つの影が瓦斯灯の下をよぎった。追われる影が一つと追う影二つ。いずれも雷のように速かったが、追われる影だけがどこかぎくしゃくとした奇妙な動きで跳ね飛びながら逃げていく。 「そっち行ったぜェ、ユーリン!」  今は静まり返った四馬路の路地裏に鋼の声が響く。それに答えて躍り出た影が逃げる者の行く手を塞いだ。ユーリンと呼ばれた小柄な若者は、果敢にも立ちはだかると同時に八卦鏡を掲げ、行く手を阻んだ相手の姿を映し取る。 『呀ァァァッ!?』  なんたることか――月下、鏡に照らされた姿は黒く変色した死人そのもの。それも、腐敗の殆どないふっくりとした肉づきの異貌。  自らの醜き姿、あるいは神の威光を恐れてか、相手が慄き怯む。その隙をつき、ユーリンは墨壺を素早く手繰った。周囲に張り巡らせていた黒縄を弾くと雌鶏の血が飛び散り、跳ね回っていた影を一瞬にして縛りあげる。刹那、糸が触れた箇所がバチバチと火花を散らした。 「間違いありません、僵尸(キョンシー)です!」  僵尸。すなわち、生きる屍。夜中、死後硬直した体で跳ね回り、生前の体力とは関係なしに怪力を持ち、人を攫い、殺し、喰らうことをその常とする人喰い妖怪。  しかし、ユーリンは眼前の妖鬼に恐れをなすことなく叫ぶ。 「――先生、トドメを!」 「応っ!」  きらり、と。凶星が煌めくように。  高く跳躍した影が倭刀を一閃――符咒を施した刃が僵尸を一刀のもとに斬り伏せる!  満月を背景に飛ばされた首が、ぽん、と宙を舞った。 「ったく……成り立ての分際で、よく飛びやがる野郎だったなァ」  先生と呼ばれた男は束ねていた黒髪を解き、斬り伏せた死体の傍に降り立った。長い髪が夜風に揺れる。長身痩躯、精悍な顔つきの青年であるが、どこかただならぬ雰囲気を纏った妖しい男だ。道袍の上に革製の短外套という奇妙な出で立ちだが、それがどうにも似合っている。 「鞘はオマエが持っていたよな」  青年は大人しく立っていたユーリンに刀を投げて寄こす。ユーリンはそれを丁寧に受け取ると、背負っていた鞘に収めた。 「さっきは……お見事でした、先生」 「さて、ユーリン。オマエはこれをどう視るね?」  再び死体に戻った屍妖怪を見下ろし、師は弟子であるユーリンに問うた。 「……はい」  ユーリンも死体の傍に膝をついて検分を始める。  月光に照らし出されたその姿は幼く華奢だが、眉目秀麗である。闇の中でも青白く透き通って映える肌は幽鬼のごとく、先ほどの僵尸とはまた別の意味で人間離れした容貌だ。そんな自らの手が汚れるのも構わずに、ユーリンは僵尸の体を検めた。 「……頸に噛まれた痕があります。その他に目立った外傷は無し。これは……死後僵尸になったのではなく、生きながらにして僵尸に噛まれたことで妖怪に転化した人間だということです」  ユーリンは自らが吐いた言葉が気に入らないとでもいうように眉をひそめながら答えた。 「はん。どうにもキナ臭ぇ話だよなァ? 奴らの食欲はまず獲物を喰らい尽すまで収まらねえ。それがどうしてこうも綺麗に五体揃ったまま暴れてやがるんだ?」  それは師の独り言だったのかもしれない。だが、ユーリンは唇に親指をあて、考え込む仕草を見せた。 「偶然か……あるいは、誰かが人為的に作り出したものかもしれません」 「偶然ねぇ。それにしちゃ、どっかで訊いた話とクリソツだよなァ? だろ、ユーリン」 「はい……私と同じ……ですから」  ユーリンが歯噛みし、手のひらをきつく握りしめたのを知ってか知らずか、青年は「ふん」と鼻を鳴らした。 「なァに、オマエの仇だって今にこのオレが見つけるさ。必ずね」  そうだ。そうかもしれない。でも、たとえそうでなくったって、自分は彼らを見つけ出す。  闇の中でも紅く映える唇がそっと、しかし確かに紡いだ。 「私は彼らを絶対に……赦しはしない!」  ユーリンは炯々と萌える翠眼に怒りの焔を滾らせて、まだ明けぬ夜の涯を睨む。  その時、また別の場所で悲鳴が上がった。  我に返って顔をあげれば、表通りを不気味な影が過ってゆく。 「やれ、斬り残すと厄介だね。満月だってのに女の子とイチャラブする暇もねえンだもんなァ」 「はぁ……先生。またそんなことを言って」  何気ないやりとりをしながら、二人の姿は再び闇の中に紛れて消えた。  程なくして僵尸だった死体は燃え始めた。その額には呪符が貼り付けられていた。  かつての中華帝国。まだ魔法が生きていた混沌と狂気の時代。  あの世とこの世の境目は地続きで、世には数々の怪異が溢れていた。中には人の世界と隣り、共存するものもいた。しかし、僵尸は人に害なす妖怪として最も恐れられるものの筆頭であった。人が人として在る限り、彼らが消えてなくなることはけしてない。  そこで、不老長生を成し、(タオ)を得ることを究極の目的とする道教世界において、俗世に留まり魔を退ける存在が求められ、生み出された。  生者を生かし、死者を葬る者たち。  人々は畏怖を込めて彼らをこう呼んだ。  〈霊幻道士〉と――。
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