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第三話 燎火燃ゆる 〈3〉
§
「よしよし、今夜はがんばりましたわね」
雪蓮のしなやかな指が髪の毛をやさしく梳いてくれる。
それが気持ちよくて、ユーリンは思わずひゅーっと長く溜息を吐いた。
今、ユーリンは客室の長椅子に横たわり、雪蓮の膝に頭を預けて一方的にあやされるといういつもの体勢になっていた。ユーリンも特に嫌なわけではないので、基本的にされるがままになっている。
問題の水月客棧に乗り込むのは明日の夕方。だから今夜は英気を養っておけといいながら、一番早く自室に引き上げていったのはグウェンだった。グウェンは別室、ユーリンと雪蓮は同室に宿泊すると事前に決まっていた。でも、二人は半僵尸で半不死者。夜は眠らない存在だ。だからこうしてすることもなく起きているのだった。
ユーリンが何も語らずとも、雪蓮は先ほどの舟上での成果を察したらしく、特に説明を求めるようなことはしなかった。もちろん怒ったり、落胆したりすることもなかった。それがユーリンには心底ありがたかった。
「わたしったら余計な気を回して、かえって悪いことをしてしまいましたわね」
「そんなことない。ありがとうって、さっき咄嗟に言えなくて……こちらこそごめんね」
視線は交わさず、言葉だけを交わす。相手の顔色を窺わなくてもいい。雪蓮なら大丈夫だ。今ならそれがよくわかる。
それに雪蓮ときたらふんわりと柔らかくて、なのに手首や腰なんかがきゅっと細くって、こうして寄り添って抱きしめられているととても安心するのだ。
「ああ。本当に、雪蓮のような素敵な女の人を好きになればよかったのに!」
「まあ、ユーリンったら。不純ですよ。でも、わたしはそういうユーリンも好きよ?」
「ありがとう。……雪蓮、好き」
頭上でくすくすと可憐に笑う気配。だから、ユーリンも同じように悪戯っぽく笑う。
「ねえ、ユーリン。あなたとグウェン様は、どのようにして出会いましたの?」
「うわ……そういうこと聞いちゃう?」
「ええ、遠慮はしませんよ。わたしの好きなおふたりのことですもの。気になりますわ」
「……私が僵尸の軍隊を造りだすための人狩りに遭ったことはもう知っているよね。でも、私ひとりだけ、実験場から逃げ出すことができた。そうして焼かれて何もなくなった村を彷徨っているとき、あの人が来たんだ」
満月。忘れもしないあの夜は今日と同じ満月だった。
青白い人魂があちこちで怪しく燃える、虚しい夜。なにも――死体すら残らないほど、まっ平らに黒く焼け爛れた村。
僵尸である私を殺しに、霊幻道士のあの人はやってきた。
「でも、あの人は私を殺さなかった。なりそこないの化物であるこの私を殺してはくれなかった。その代わり……弟子にしてやるから僵尸退治を手伝えと言ってきたよ。オマエのようなガキを救うのがオレの仕事だと」
「ユーリンは、なんと答えたのですか?」
「私は、みんなの仇が……自分の仇が取れるのならばと。ようするに条件を飲んだんだ。そこからだよ」
私は霊幻道士の弟子になったんだ、ユーリンは遠くを見る目をして呟いた。
大切なことを口に出した気がした。否、口に出してから気がついたというべきか。
恨みに憎しみ。怒り、哀しみ。死んでも死に切れぬほどの怨念を抱えた人間が死後僵尸となる。それは思ったよりもずっと残酷なほどに簡単なことだ。
だが、自分が今もこうして完全に怪物に成り下がらずに踏み留まっていられるのは、その魂をグウェンに救われているからかもしれない。
「……先生はやさしい。私をいつも、今だって助けてくれている」
「あの方は、わたしのことも救ってくれていますわ。もちろん、ユーリン。あなたもよ」
ユーリンが身を起こすと、雪蓮はぎゅっとユーリンの体を抱きしめてくれた。ふたたび、頬を寄せ合って笑い合う。
……ひとつ、いたずらを思いついた。先生が眠っている今しかできないことだ。
「雪蓮も行く?」
雪蓮は、はい、と答えて花開くように微笑む。
夜は長い。飽きるほどに長いから。
だから、たまには誰にも言えないようなことをして過ごすのも一興だろう。
二人はグウェンが眠る部屋にそっと忍び込んだ。そして、小さくて、なんてことのない、誰も不幸にしないいたずらをたくさんした。ユーリンと雪蓮は互いのささやかな秘密を共有した。
§
タン氏の残した手がかり――水月客棧。
その地を訪れた一行が目の当たりにしたのは、まことに豪著な客棧であった。
周荘市街地からは多少離れているものの、建築物の豪勢さは比ぶべくもない。
「まあ。これは……風流ですね」
「昨日のお宿もよかったけれど、それよりも数段等級が高い……のでは」
雪蓮とユーリンがそれぞれに感想を述べる。
「それは実際に泊まってみて確かめればいい。さて、雪蓮。タン氏は以前、この場所について何か言っていませんでしたか?」
「いいえ、なにも……。でも、取引があるといって西へ出かけていくことが時々ありました。もしかすると、この場所を訪れていたのかもしれませんわ」
「なるほど。やはり中を調べてみないといけませんね。ユーリン、雪蓮、行きましょう」
「はい。お泊まりでございますね。お部屋はご相室でござんしょう?」
訳知り顔のボーイがグウェンに向かって頷いてみせる。ボーイはなにも仰らずに、と愛想笑いを浮かべた。
グウェンは「へ?」と一瞬間の抜けた顔をしたのち、すぐにぱたぱたと手を振って否定した。
「違う、違う! そういう目的じゃありませんから。二部屋、用意してくださいね。ひとつは僕、もう一部屋はこの子たちの相室で」
「そうなんでございますか?」
「そうですとも!」
うら若い女連れで――おそらくユーリンも女であると判断されているのだろうが――人里離れた客棧への宿泊を希望する。状況からしてそう判断されるのは仕方のないことではあるが、ユーリンとしては色々な意味で不服であった。
「……なんだか胡散臭い奴」
こっそり耳打ちすれば、苦笑した雪蓮に「めっ」と冗談交じりに叱りつけられる。
一行はボーイに案内されるまま、客室の間の廊下を進んでいく。
「お部屋はいかがなさいましょう? こちらの左側は貴賓室になっておりまして、景観、調度ともに一級となっておりますが」
「右側の部屋はどうなっているのですか?」
「調度は少し劣りますが、外には川が流れておりましてね。眺めは大変よろしいですよ」
「言われてみれば、水の音も聞こえますよね」
そういえば、ざあああと雨音のような心地よい雑音が絶え間なく聴こえている。さすがは水郷の里といったところだろう。昨日すでに水郷村を見て回っていたので、景観の素晴らしさについてはユーリンたちも十分に承知していた。
「では、右側の部屋をふたつ。できればお隣どうしでお願いしますね」
余所行きの笑顔でグウェンが言った。胡散臭さではこちらも負けてはいなかった。
そして、夜半過ぎ。
他の宿泊客が寝静まったであろう頃合いを見計らい、三人はほぼ同時刻に部屋を出た。
夜闇に沈んだ回廊は蒼暗く、夕方と同じ――川のせせらぎだけが響いている。
「では、調査を開始しましょうか」
「さっき帳簿を盗み見たところ、タン氏は一階奥の特別貴賓室を何回も利用していたようです」
どうしますか、とユーリンが促せば、グウェンは少し考えてから答える。
「雪蓮。もし来たくなければ、貴女は部屋で休んでいてもよいのですが……」
「いいえ。わたしも行きますわ。あの方が何をしていたとしても、もうわたしは迷いはしませんから」
「……わかりました。では、参りましょうか」
階段を降り、廊下を抜けて、奥へ奥へと進んでいく。心なしか川の水流が強くなったように感じられたが、ユーリンの気のせいかもしれない。
それよりも、驚くべきはこの建物の奥行きだ。外観だけを見た状態からはとても分からなかったが、実際は見た目以上に広く、奥行きがあった。それが視覚的錯覚によるものか、あるいは何かの法術によるものか、ユーリンには見当がつかなかった。
「さあ、準備はよいですか?」
特別貴賓室。その朱色の扉の前でグウェンが合図する。ユーリンが頷き、雪蓮が小さく息を飲む。グウェンが音を立てないよう注意しながら扉を開いていく。
幸いなことに、中には誰もおらず、豪華な調度品で装飾された空間が広がるのみだ。
ユーリンたちは室内の検分を始めようとした。その時、雪蓮が緊張した様子で口を開いた。
「……気をつけてくださいまし。この部屋、血の匂いがいたしますわ」
ユーリンとグウェンが雪蓮に視線を向ける。雪蓮はまるで匂いの出所を探すかのように周囲に視線を巡らせた。
「本当にうっすらと、ですが……レッド・ダリアと似ています。部屋全体に沁みついた行為の痕跡、というべきかしら」
レッド・ダリア。あの場所で施されていたのは雪蓮への一連の〈医療行為〉だった。若い男を捕えては殺し、秘薬としてその血肉を雪蓮に与え、あるいは僵尸を生み出し、血腥くおどろおどろしい人体実験を繰り返してきた――。
ユーリンは雪蓮の言葉の意味するところを考える。
……ここでもレッド・ダリアと同様の行為が行われているというのだろうか?
「考えているばかりでは埒があきませんね。僕は寝室を調べましょう。ユーリンと雪蓮は客間をお願いします」
「わかりました。気をつけて」
グウェンは隣の部屋へと移動していった。
指示された通り、ユーリンと雪蓮は手分けをして客間を検め始めた。雪蓮が椅子やテーブルの並べられた部屋の中央部分を探し、ユーリンは壁際に配置された家具を調べていく。
絵や壺などの調度品を調べても何も出ない。やはり怪しいのは書架だろうと見当をつけ、ユーリンは壁際に並ぶ四台の棚を調べ始めた。
「これは、一冊ずつ見ていかないといけないのかな……やっぱり」
遠くなりかけた気を奮い立たせ、まずは適当な一冊に手を伸ばす……と。ユーリンは、不意に自分の足元が汚れていることに気がついた。
「しまった」
外で泥でも踏んできたのだろうか。一歩後ずされば、爪先が擦れて床に雑な線を引く。まだ乾き切っていないこれは、しかし、泥などではない。
「……血だ」
やおら思い至り、書架が置かれた床に目をやった。当たりだ。わずかに動かした痕がある。血痕はそこに沿って残り、今夜、何者かの手によって棚が動かされたことを示していた。
「先生、雪蓮、こっちへ。書架の裏に何かあるようです」
二人を呼びつつ、矯めつ眇めつして調べる。押しても引いてもだめだ。四台ぎっちりと並んだ棚は並大抵の力では動かない。かといって、飛僵としての怪力を発揮すれば部屋を壊しかねない。ユーリンごときの財布事情では、こんな豪勢な部屋の弁償などできるわけがなかった。
「ぐぎぎ……小癪な!」
「がんばってくださいまし!」
「あの……あなた方、何をしているんです?」
ユーリンの奇行に「……ははあ、隠し扉か」と勝手に納得した様子のグウェンが寄ってきて、隣に立った。
「こういうのはね、大抵本に――」
グウェンのしなやかな指が一番目立つ赤い本の隣――なんてことのない緑の本を引き出す、と。何か仕掛けが作動する音がして、静かに棚が動きだした。
「――スイッチがあるものなのですよ?」
こちら側に傾いた本棚をさして、グウェンが得意げに微笑んだ。
「……まあ、すごい」
隠し扉とその仕掛けを見破ったグウェンに対し、素直に驚くのは雪蓮だ。ユーリンとしては無駄に敗北を味わった気分だった。
「どうせ西洋の変てこな小説から仕入れた知識でしょう。先生は珍奇な本ばかり読んでいるし」
「なんですか、その生温かい目は。せっかく開いたのだからよしとしてくださいな」
謎の隠し扉。書架の向こうに口を開けた闇を覗き込む。地下へと続く階段がそこにはあった。
「タン氏がわざわざこの部屋を選んで宿泊していたということは、地下室の存在を知っていた……ということですよね?」
「このような証拠が出てきた以上、それ以外には考えられないでしょう。さて……」
降りようか、グウェンが言いかけたその瞬間、
「ひいぃいぃぃぎゃぁあああぁぁぁああぁぁぁぁぁぁぁ――――っ!」
地下室と思しき空間から、おぞましい悲鳴が響き渡る。
もはや悠長に構えてはいられなかった。
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