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第四話 鬼哭 〈1〉
「行きますよ!」
階段に飛び込むようにしてグウェンが身を翻し、ユーリン、雪蓮と続く。
駆け下りていく間も悲鳴は止まない。それどころか、悲鳴がひとつに留まらず、大勢の人間による混成大合唱であることに気づく。
ざああああああ、というあの川の音。
「あれ、ぜんぶ悲鳴だったのか!」
「川の音が悲鳴を掻き消していたのですね」
いよいよ階段を下りきる――と。てっきり悲鳴の正体が視界に飛び込んでくるものだと思っていたユーリンは、眼前に広がる光景に息を飲んだ。
「なんだ、これ……」
そこには。地下に降り立ったユーリン達の前には、無数の小部屋からなる地下迷宮が広がっていた。そのあちこちから悲鳴や怒号、あるいはわけのわからぬ絶叫が響いてくる。
立ち尽くすユーリンの横に並んだ雪蓮が「まさか、そんな」と呟いた。
……しかし、その呟きがどうしてかとても遠い。
既視感に眩暈を覚えるが、どうにか堪えてその場に踏みとどまる。倒れていないのが不思議なくらいだった。
本当に? 私はちゃんとここに立っている?
私。
私は。
何処かも知れぬ地下室。迷路。闇。血と肉の匂い。悲鳴。
ユーリンがかつて見た悪夢のような現実が、脳裏にありありと甦る。
……必死で這いだし、逃げ出してきたあの場所での出来事が。
まさか、ここは――
「これが水月客棧の本当の姿……地下にこそ本来の〈客室〉があったというわけですね」
グウェンの声も遠い。と、さきほどの悲鳴が再び響いてくる。
「こっちです!」
無数の扉。いずれも鉄格子の取りつけられた、錆びついた古い扉だ。グウェンがそのひとつを開け放つ。
「……う、くっ!?」
そして今度こそ、一行の目に凄惨な光景が飛び込んできた。
凄惨、と称するにはあまりにもおぞましく生々しい光景。
裸に剥かれた男が、赤白く発光するまで熱せられた巨大な鉄塊を抱かされている。咽かえるような熱気に獣臭。焼け爛れ、溶ける間もなく白く炭化してゆく肉体。悲鳴。絶叫。
「このっ……装置は止められないのですかっ!?」
「からくりの仕組みが僕には……、ッ! 雪蓮下がって!」
たまらず前に身を乗り出した雪蓮を無理やり下がらせ、グウェンが男の前に立ちはだかる。
「ひぎぃぃぃぃィィいぎぃいぃいいィyyyyhhheeeeaaaaaaaaa!!」
眼前で事切れた男が一瞬にして僵尸に転化したのだ!
なおも灼熱を抱き、その身を焼かれながらも、僵尸と化した男は犬歯をがちがちと鳴らしてユーリン達を見ている。喰いたい、喰いたい、と。肉体が焼け爛れようと関係などない、なんとかしてユーリン達を喰ってやろうともがいている。
「手遅れだ。ユーリン、呪符を!」
「ッあっ、あ……う……」
「ユーリン!」
名前を呼ばれても震えが止まらない。自分で自分を抱いたまま、ろくに動くことができない。
先生が呼んでいる。僵尸を始末しなくちゃならない。
わかっている――それなのに。
ユーリンを待たずに動いたグウェンが呪符を飛ばし、刀で僵尸の首を切り落とす。男はぐったりとして動かなくなった。ざあざあと重なり合った悲鳴はそれでもまだ鳴り止まない。
「グウェン様、これは……一体……」
「まったく、タン氏もとんでもない手かがりを残してくれましたね。……ここで人為的に僵尸を造り出す実験が行われていたんですよ。宿泊客や、おそらくは人狩りによって連れて来られた人間を使って、ね」
「では……この……地下のすべての部屋が……?」
「拷問部屋、でしょうね。人間や動物を僵尸にするために、ありとあらゆる手段でもって苦痛を与え、なにもかも奪い尽し、非業の死を遂げさせる。僵尸を造り上げるためのあまねく手段を追求しているのでしょう」
「……ひどすぎますわ」
「問題は誰が何のためにこんなことをしているのか、だが……ひとまずは三人で手分けして生存者を助けないといけません」
この迷宮を形作るすべてが拷問のための部屋。より強力な僵尸を人為的に生み出すための。
――りん、と。鈴の音が響く。
その瞬間、脳裏に自分を呼ぶ声が甦った。
ユーリン――きみは本当に可愛らしいね。
男の声。体中を這いまわる手。絡まる脚、弾む呼吸。溶け合い、濡れてゆく肌。注がれる熱。血が滴る。白と緋。赤、赤。黒。そして――
――りん。鈴の音が響く。
ユーリン。思い出して。
鈴の音。
ユーリン。おまえはおれのものだよ――この先、いつまでも。
ずっと、ずっとね――?
「ちがう、ちがうっ! 私……私はっ」
「ユーリン!? どうしたの? あなた、震えて」
差し伸べられた手を振りほどき、ユーリンはついに走り出す。雪蓮がひどく驚いた顔をしていた。
ごめん、ごめんなさい。でも、ああ。私は確かめなくてはならない。
走る。走る。角を曲がる。
走る。扉を開く。
四肢を鋸で切断されながら絶叫する男がいる。父さん?
……ちがう。
走る。扉を開く。
全身を水に沈められた裸の女が水中で僵尸と化してこちらを睨んでいる。姉さん?
……ちがう、ちがう。
扉を開く。
磔にされて全身の皮を削がれた少年が何事かを絶叫している。弟のユーシャン?
……ちがう、ちがう、ちがう。
走る。走って、走って。何度か角を曲がった。また扉を開ける。
暗闇の中で縛りつけられた子どもが泣いている。まだ生きている。しかし、その頭上には縊死して僵尸と化した母親の屍が吊り下がっている。妹と……あれは母さん?
……ちがう、ちがう、ちがう、ちがう。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……!
走る。足がもつれて転びそうになる。そして、辿りついた。離れたところに、鉄格子の扉がひとつ。取っ手に手を掛ける。
だめ。開けてはだめ。見てはだめ。感じ取ってはだめ。思い出してはだめ。
体中の細胞一つひとつがそう叫んでいるようだった。ここから先を見てはいけないと。
……私はここを知っている。でも――何を知っている?
それを確かめなければもう前には進めない。
ユーリンは震える手で扉を押し開けた。
通常よりも広い部屋の奥には、小さく、しかし、もっとも残酷な地獄が在った。
二人、人の姿がある。ひとりは少女、もう一人は男。
か細い悲鳴と懇願の声が響いてくる。聞きたくない。聞きたくないのに、何を言っているのか、ユーリンの耳には鮮明に聞き取れた。
視線の先には、鎖に繋がれ、痩せ細った裸の少女が床に倒れている。腕も脚も細くしなやかで、まだ幼い少女なのだとわかる。しかし、その白い腹だけが不自然に大きく膨らんでいる。
その脚元に立った男が、両脚を開かされた少女の内股に細い金属棒を突き込み、何かを無理やり掻き出している。時折、ぶちっ、みぢっ、と耳障りな音が響き、そのたびに少女の口から絶叫が漏れた。
何か、言葉にならない言葉を口にしてしまったのかもしれない。ユーリンに気がついたのか、男が振り返る。男の顔には見覚えがあった。受付にいたボーイだった。
「何です、アナタ? 今は麻酔なしでの大切な手術中なのですよ? ああ……でもほら、成功してよかったですよ。たっぷり出てきたじゃありませんかァ……!」
少女の性器から無理やりに金属棒が引き抜かれ、押し広げられた膣から大量の血と肉が掻き出される。少女の内腿を紅く染め、床に放りだされたのは白く脆い肉の塊。半分が崩れ、だがしかし、確かにヒトとしての原型を保った胎児であった。
「あっ、が…………わ、た……しの……赤ちゃん…………」
大量の羊水に胞衣までが排出され、血と混ざり合いながら早くも酸化し始める。
「ぁ、……い、……ぃ…………」
ユーリンの眼前で少女が事切れた。
が――その体が激しく震え、骨と筋肉が皮下を出鱈目に暴れ始めた。
「ぎ……g……ぎぃ……Ggぃぎぃyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyy!!」
僵尸に転化した少女は四つん這いで起き上がるなり、自らの前に打ち捨てられた胎児を喰らい始めた。まだ生温い血と肉が音を立てて咀嚼されていく。喰い破られていく。なけなしの尊厳が、屍の化物によって、踏みにじられていく。
「見てくださいよ、お客さァん! 実験は成功だ。僵尸ってやつァ、生前自分がもっとも執着した人間を喰いたがるんだ! たとえそれが無理やり孕まされた餓鬼でもねぇ! ほら、喰え、喰えっ。愚かな雌僵尸め……!」
何が愉快なのか、しきりに笑い声を上げながら、男は自らの胞衣を食いちぎる少女の頭を踏みつけた。ユーリンの中で何かが音をたてて、ブチ切れる。
疾駆し、跳躍したユーリンは一瞬にして変化を遂げた凶爪を男に向かって振り下ろす。
その腕はしかし、鋭く磨き抜かれた刀身によって阻まれた。
「……なりませんよ、ユーリン」
男とユーリンの間に割って入ったのは――グウェン。
グウェンはユーリンの爪を押さえたまま、峰打ちで男を昏倒させる。
そして、なおも我が子を喰らう少女の僵尸に歩み寄った。最後は一瞬だった。呪符が舞い、彼女の首に刃が振り下ろされた。グウェンの動きには迷いも躊躇いも見られなかった。
ただ苦しみを終わらせる。グウェンの術は今それだけのために用いられたのだ。
振り返ったグウェンの蒼い眼がユーリンに向けられた。
「あ……あっ…………わ、わたしっ、私はっ、ちがうッ」
「ユーリン。こちらへ――」
グウェンは、真っ直ぐにユーリンを見つめ、手を伸べる。
先生は全部を知っても私を受け入れてくれる。
でも、私はそんなことできない。私は――
「私じゃない! 私はこんな……ちがう、ちがうちがうちがうちがう、ちがうよっ! 私はちがうっ! こんなの私じゃない! 私じゃないっ! わたしじゃないっ!!」
「その通りだね。君はこんなつまらない女の子とは全然違った。ユーリン、君はもっと嬉々として交わり、孕み、堕胎し、喰らっていたのだから」
背後の闇の奥からよく透る声が響き、ひとりの男が姿を現した。それは、黒い長袍に身を包み、一振りの倭刀を佩いた道士だった。
凪いだ瞳は赤橙色で、凛々しく整った相貌をしている。
容姿は端麗、柔和で匂い立つような気品を備えた青年は、グウェンにとてもよく似ていた。
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