第四話 鬼哭 〈2〉

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第四話 鬼哭 〈2〉

  「……ジーン?」  驚愕に目を瞠ったグウェンが渇いた声でその名を呼んだ。 「あ……」  ジーン。そう。そうだった。  私からすべてを奪い、化物に変えた男こそ、目の前の―― 「あ……うあ……うああああああああああああああああああああああああああッ!」  ユーリンは四肢をしならせ、グウェンも止められない速さで跳躍。ジーンへと肉薄する。 「殺す! おまえだけは殺すッ!」 「甘いよ、ユーリン」  ――蕭!  霊力を込めて打ち鳴らされた帝鐘の圧に負け、ユーリンの体が床に叩きつけられた。  僵尸を調伏させるには符咒を仕込んだ上で、その術者が帝鐘を鳴らすのが定石だ。さすれば僵尸は自分の〈(あるじ)〉の命令に逆らえなくなる。 「貴様ッ、ジーン!」 「元々その子はおれのものさ。グウェン、お前は所詮命令を上書きしただけにすぎないんだよ」  外法道士ジーンはグウェンに向かい、親しみを込めて穏やかに微笑みかけた。本当に――家族にしか見せぬような、気安く人懐っこい表情だった。 「でも、おれの術式を組み換えたうえ、符咒回路を上書きできるやつはお前以外にはいないだろうね。やさしいお兄チャンが褒めてやろう、弟よ」 「……うるせえよ。雪蓮! ユーリンは?」 「無事です! 気絶しているだけ、ですわ」  背後では雪蓮がユーリンを支え、立ち上がろうとしていた。 「よし。それじゃあ、ユーリンを連れて今すぐ退いてください。生存者はできるだけ地上へ誘導し、死者には呪符を頼みます」 「でも、グウェン様はどうなさるのです!?」 「僕は奴を斬らねばなりません」  紺碧の双眸に異父兄の姿を映したままで、決然と告げる。  ジーンの口元が愉快そうに深く弧を描いた。 「……わかりましたわ。グウェン様、どうかご無事で」  ユーリンを抱え、意を決した雪蓮が部屋を出ていく。彼女であれば心配はいらない。きっと意図するところを読み取り、すべてやり遂げてくれるだろう。  だから――今はジーンに集中しなければならない。奴を殺すこと。それだけを考える。 「えらくひさしぶりだねェ、グウェン。会うのは霊山以来かい?」 「ほざけ、裏でずっと糸を引いてやがったくせに。タンに入れ知恵し、この水月客棧でも裏から手を回して好き勝手してやがる。おまえの狙いは何だ?」 「おいおい、それだけじゃないだろう? 忘れてもらっちゃ困るなァ。君の愛しいあの子を化物にしたのは……」 「てめえッ」  グウェンは悪鬼の形相でジーンを睨みつけるが、ジーンは可笑しそうにけらけらと笑うだけ。 「可愛い子だよね。健気でさ。残念でしょう、おれに先を越されて。あの子を自分の手で女にできないなんてさ。それとも、おまえは化物とヤる方が好きかもね?」  紫電一閃。  鞘を捨て、グウェンはジーンに斬りかかる。  ジーンも同時に刀を抜き払い、刃を受け止めていた。  鍔迫り合い。  それでもなおジーンは余裕だ。グウェンの全力を簡単に受け止め、押し返そうとしている。 「それなりに楽しい工程だったね。何にも知らない子どもだったユーリンくんを犯して、孕ませ、また犯して。ついでに言えば堕胎させたのもおれさ。ちょっと見込みがあったから。そうそ、無理くり子宮ごと引きずり出してやったんだけど、あの子、確かに転化したにも関わらず真っ先におれを殺そうとしたんだよ? 驚きでしょ!」  ジーンの黒刃がグウェンの刀を押し返す。両者は再び間合いを取りながら対峙する。 「……再調教してやればそれなりに面白いことになったんだろうけど、逃げちゃうなんて勿体なかったな。でも、まさかオマエがあの子を拾うなんて……そんなにお兄チャンのことが忘れられなかったのかい?」 「ほざけ!」  突き出された刃をジーンが躱し、反撃に振るわれた切っ先がグウェンの前髪を数本散らす。 「師父を殺し、故郷の焼き討ちを手引きした。ジーン! オマエは霊幻道士でありながら、何故そうまでして破壊をふり撒こうとするっ!?」 「ねえ、グウェン。この国……清朝は終わろうとしている。こんな世に、もう魔法などは存在しない。仙道はみな昇天し、神話の向こう側に去ったというのに、おれたちときたらどうだ?」  三度、刃が交わる。剣戟、剣戟、剣戟――。  火花が散って、剣光がたばしる。 「……それは」 「おれたちは現世の汚濁を一身に引き受け、怨みつらみや憎しみのなれの果てを払い続けている。結局のところ、いいように使い捨てられるのがオチさ」 「それは違う! 師兄(にい)さん、僕たちは……ッ!」 「グウェン。おれたち――霊幻道士とはなんなのだ?」  赤橙の瞳の奥には無限の虚無があった。十余年の歳月を経て、今こうして再び相見え、初めてグウェンはそれを直視した。  あのとき。幼い自分には出来なかったこと。  ジーンを斬る。今度は。今度こそ、やるしかない……! 「生者を救い、死者を葬るのがオレたちの仕事だ。二言はないだろうが!」 「ふん。人間は救うに値するのかい? いっそ僵尸のほうが人間の真の姿なのではないか? それが知りたくて、おれは実験に手を貸していただけなのさ。僵尸を殺す方法を知っているってことは、その逆もしかり。おれたちは他の誰よりも人間を僵尸にする方法を詳しく知っているってことだろう?」  敏俊に加えて、剣気のこもった凄まじい突き。  法術の腕もさることながら、剣術にも長けたジーンの業前は健在だった。  グウェンにだって自分の方が追い詰められていることくらい分かっている。 「それでこんな僵尸製造工場の手引きをしてたってわけか? 生と死の謎を――(タオ)を紐解こうとしたわけかよ! それでどれだけの人間を犠牲にした! 魄が地に返らなければ生命は循環しない。あの世に往けぬ死者がこの世に溢れかえるだけだ」 「そう、混沌だよ。それこそが……おれはそれが見てみたいんだよ」 「どういう意味だ」 「おっと。これ以上はお兄チャンを倒してからじゃないと教えられないねェ?」 「言われずとも、オマエは斬る!」  グウェンの長外套がはためき、呪符が舞う。無数のはばたきがジーンめがけて襲い掛かり、グウェンはそれに乗じて太刀筋を変えた。一気にカタをつける。そのつもりだった。  漆黒の剣光が閃き、迸る剣気に呪符が弾け、それがさらに千々に切り裂かれた。  ……一瞬の永劫、赤と青の視線が交わる。  刀光一閃!  ――果たして、脇腹から血を吹き上げ、倒れ伏したのはグウェンの方だった。 「おや、わりと本気で首を狙ったんだけれど。ちょっと過小評価していたかもね。でも、相変わらず……おまえは昔っから弱っちくて、法術頼みの悪癖が変わってないなぁ」  傍へやってきて、自分を見下ろすジーンに対し、グウェンは血反吐を吐きながらも笑い返した。いかにも皮肉っぽく唇を歪め、とびきり悪辣に。 「……そうでもないぜ」  グウェンは力を振り絞って、思い切り帝鐘を打ち鳴らす。  澄み切った音色が遠くまで反響し、鼓膜を震わした。 「なんのつもり――まさか、おまえ……」 「急急如律令!」  ぐごぉん、と。一瞬の間を置き、地響きが辺りを揺らした。続いて、ごごごご……と地下迷宮自体が揺れ始める。 「オレの帝鐘に反応した僵尸は百前後ってとこか。雪蓮、ちょっと上出来すぎだろうがよ」 「おまえ、ここにいる死者全てを操って動かしたね。あの女の子に呪符を持たせたのはこのためか。この悪戯っ子めが」  ジーンは床を這いつくばるグウェンの腹を思い切り蹴りつけた。だが、グウェンはなおも笑っている。口から血を吹き零し、ぺっ、と行儀悪く血痰を吐き出す。 「……どうするよ、ジーン。これだけの打撃だ。地下はもうすぐ崩れ落ちる。オレと兄弟仲良く心中ってのも乙だろう?」 「まったく、グウェン。おまえは呆れた弟だよ」  言いながら、ジーンは刀を鞘に収めた。  グウェンたちがいる部屋の壁が崩れ始める。ここも長くはもたないだろう。 「おまえの悪運が強ければ、都でまた会えるだろうね。それじゃ、グウェン。その時まで、ばいばーい」  ジーンはぱたぱたと軽薄に手を振ってみせる。霞みゆく視界の中で、ジーンの姿が掻き消えた。法術でも使ったのか。いずれにしろ、奴は去った。 「……くはは、ジーンよ。見たことか、クソ兄貴」  腹の傷口を手で押さえるが、血は一向に止まらない。熱と力が体から急速に抜け落ちていく。  ……こんなことなら、せめてユーリンをもっと人の側に近付けてやるべきだった。必要なのは温もりだった。死後もなお硬直し続けた心を溶かすには、ありったけの熱が必要だった。  馬鹿はオレだ。  §  楼閣が崩れていく。  生存者を連れて退避を終えた雪蓮は、崩壊を始めた水月客棧を固唾を呑んで見守っていた。  先ほど大きく建物が揺れたのは、間違いなくグウェンが術を発動させたためだ。それはつまり、自分が呪符を貼り付けた百余名全ての死者を彼が支配下に置いたということ。自分は役目を果たすことができたのだ――そう確信したが、すぐにその確信は憂慮に変わった。  グウェン様は何故あのようなことをわたしに託したのだろう?  もしかすると、彼は最初から自分が生きて戻ることを計算に入れずにあの選択をしたのではないか?  だとすれば、彼はまだ建物の中にいる。否、もっと最悪の事態だってありうる。  ……あの邪道士は、とても恐ろしい存在だ。グウェンによく似たあの青年がどす黒い冷気のような剣圧を放っていたことに、雪蓮は気がついていた。  けしてグウェンを信じていないわけではない。それどころか尊敬の念を抱いてすらいる。でも、彼にもしものことが起こっていたとしたら――。 「……わたし、行かなくちゃ」  グウェンもユーリンも大切な恩人で、いまではきっと友人だ。それを助けられなくて、わたしはどうしてやっていけるのだろう。それに、もう二度と目の前で大切なものを失うわけにはいかないのだ。肩で支えていたユーリンを手近な軽傷者に託そうと抱き起こせば、そのユーリンが小さく呻き、身じろいだ。 「ユーリン……目が覚めましたか。よかった」  ほっとすると、つい涙が溢れそうになる。だめだ。今は、まだ。 「雪、蓮……先生、は……?」 「……ユーリン。そのことで大切なお話がありますの。わたし、いまからグウェン様を探しに中へ戻ります。あなたはここにいる皆さまと、あそこに見える空楼へ避難してくださいまし」  その言葉に、ぼんやりと霞がかっていたユーリンの猫目がみるみると見開かれていく。 「……行ってはだめだ、雪蓮」  身を起こしたユーリンが雪蓮を見据える。生気のない顔つきをしているが、目にはいつもの輝きが戻っていた。 「どうして。グウェン様は、きっと中で……」 「あの建物はもう長くはもたない。それに、見て。夜明けが近い」  ……夜明け。その言葉にはっと面を上げれば、東の空はわずかに朱が走り、白んでいた。黎明が近い徴だ。夜族の雪蓮とユーリンには陽の光は大敵だ。僵尸は陽光に曝されれば燃え始め、最後には炭と化す。しかし、それでも。 「……構いませんわ。わたし、戻ります」 「それはだめだ」 「でもっ」 「だから、私が行く。私は先生の弟子だ。あそこへ戻るべきは私の役目なんだよ、雪蓮」  ユーリンは雪蓮に向かってやさしく微笑んだ。傷ついたか弱い少女の笑みではない。霊幻道士の、その弟子としての心強い微笑みだった。 「……でも、ユーリンは……傷ついて、怪我だって……」 「こんなもの、先生がすぐに治してくれる。否、治させる。そして私はもっと強くなって、今度こそ奴を殺すんだ」  雪蓮はユーリンをまじまじと見た。こんなに細い体のどこにこれだけの力――ある種の意志が宿っているのだろう、と。 「雪蓮は生きている人たちを連れて空楼へ。そのまま休んで。夕方まで出て来てはだめだよ。私たちも後から必ず行くから」 「必ずよ? 約束してくださいね。ユーリン」  雪蓮を勇気づけるようにユーリンが深く頷く。そのまま踵を返すと、ユーリンは崩れゆく楼閣の中へ姿を消した。
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