第四話 鬼哭 〈3〉

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第四話 鬼哭 〈3〉

 水月客棧のロビーは既に崩壊寸前だった。瓦礫を無理やり乗り越える形で楼閣の中へと入り込んだユーリンは、そのまま貴賓室の隠し扉をくぐり、地下迷宮へと飛び込んだ。  もう生者はひとりとしていない。雪蓮が精一杯誘導してくれたおかげだ。  在るのは死者と――そして僵尸たちの姿だけだ。この客棧に誘われ足を運んでしまった不運な旅人、あるいは人狩りにあって連れて来られた罪なき人々。その多くが拷問によって嬲られ、非業の死を遂げ、自身が抱いた怨みや憎しみによって僵尸と化した。転化すればもう二度と元には戻れない。死体妖怪として討伐され、二度目の死を迎えるまで、救いはない。  ……いったい何が正しくて何が間違っているのだろう。  怨みを抱いて死ぬこと自体が罪ならば、それが清められ救われることはないのだろうか。  牢獄の間を走り抜けながら、ユーリンは思う。  でも、私は先生に救われた。  霊幻道士は生者を生かし、死者を葬るのが掟。しかし、きっとその過程で死者の魂をも救っているのだ。だから、今度は私が先生を助ける番だ。  ユーリンはジーンが現れたあの部屋を探して、いくつかの角を曲がった。少し離れた場所に、鉄格子の扉がひとつ。扉は開いたままになっている。あれだ。楼閣が崩壊していく轟音と自分の呼吸以外に物音は聞こえない。また、薄闇に息づく何者かの気配も感じられない。  ――先生。  意を決して部屋に飛び込むと、床に倒れ伏すグウェンの姿があった。 「先生……っ!」  ジーンの姿はどこにも見当たらない。だが、たとえ奴がいたとしても構わずに駆け寄っただろう。グウェンを抱き起こせば両腕が血に塗れた。床にも血だまりが出来ている。斬られたのか。どこを。否、それよりも呼吸は――鼓動は。どうして目を開けない。どうしてぴくりとも動いてくれないのだろうか。 「先生、先生っ! いやだっ、やだ――何か言ってよ! 僵尸になんかならないで! 私、私はっ、生きている先生のことが」 「ったく……転化、してたら真っ先に、オマエを喰ってる、っての……」 「あ、あっ……先生っ!」  小さく呻いたグウェンが無理やり皮肉げな笑みを浮かべてみせる。生きている。感極まってその体を抱きしめると、グウェンは「ぐええ」と本気の悲鳴を上げて悶えた。 「は、腹、お腹ね、斬られてるから……そ、いうのは死んじゃうから、いまは勘弁、な……?」  その言葉に視線を下ろせば、吹き零れるように出血する脇腹の傷が目に入った。 「……今、止血をします。すぐにここをでましょう」  応急処置ではあるが、傷口を押さえて縛り、呪符を貼る。付け焼刃でしかないが、しないよりはましだった。グウェンは呼吸が荒く、顔色も悪い。紺碧の瞳は霞みがかって眠たげで、明らかに危険な状態だ。最早一刻の猶予も許されない。  グウェンを支えて立つと、ユーリンは一歩ずつ確実に出口へと向かって歩き続けた。  天井や壁の崩落を避けながら楼閣から這い出すと、東の空はさらに白み、彼方の稜線がくっきりとその輪郭を現していた。太陽が僅かに顔を出しており、眩い光に眩暈を覚える。  ……まずいな。もう日の出だ。迷っている暇なんてない。  意を決して朝霞の中を歩きだす。雪蓮たちのいる空楼までは、とても持ちこたえられないだろう。ならば、他に手近な空家を探して身を隠し、昼をやり過ごすしかない。しかし、何より優先すべきはグウェンの容体だ。早く手当てを施さないと、本当に間に合わなくなってしまう。 「先生、しっかり。もうすぐ、ですから……」  返事はない。再び意識を失ってしまったのだろう。  その時、ユーリンの全身を冷気が駆け廻り、冷や汗が溢れ始めた。背中が燃えるように熱い。  夜闇に飲まれていたユーリンの輪郭。それがついに影となって大地に映し出される。  ――日の出だ。太陽が昇り、陽光が世界を夜から朝へと反転させていく。 「ッぐぁぁっ……!」  体内外に異変が生じ、陽光を浴びた背中が爛れ始めた。しゅうしゅうと音を立て、体が焼かれていく。背中に火がつき、それが少しずつ広がって、ユーリンの体を蝕ばみ始めていた。 「う、あッ……くぅ……!」  一歩踏み出すごとに、踵、うなじに髪の毛と炎が広がっていくのが分かる。  あと何歩持ちこたえられるだろうか。三十歩? 否、二十歩といったところか。  急速に思考までが焼け爛れ、目蓋が重たくなってゆく。いますぐに眠ってしまえたら、どんなに楽なことだろう。でも、そんなことはできない。  私が燃えてしまっても、先生だけは助けなくてはならない。絶対に、絶対にだ。 「……せんせ、待っていて……すぐ、運ぶ……から」  ユーリンは火がグウェンに燃え移らぬように自分の外套で彼を覆い、細心の注意を払いながら歩き続けた。必死に目を凝らして周囲を探す。空楼との間には納屋があったが、遠い。もう無理だ。ならば他には。陽光に目が霞む中、昨夜とは違う景色を見回す。と、一軒のあばら家が目に入った。  ……五十歩先か。あるいは、もう少しはマシか。選択の余地などない。ユーリンは進路を変えると、朽ちて荒れ果てた家屋を目指した。冷や汗が頬を伝い、生理的な涙が溢れ出る。痛みのあまり、ひどい吐き気が襲ってくる。もう内臓ごと吐き出してしまいそうだ。  倒れ込むようにして、あばら家に逃げ込む。幸いなことに空家だったようで、誰も住んではいない。グウェンを丁寧に横たえると、ユーリンは窓の下を避けるようにして寝転がった。  息の根が止まりそうだ。血か汗か何かが背中を流れていくが、確かめる気にもならない。今ここで眠ってしまえるなら、わりと本気でなんだってしてしまえる気がする。でも、だめだ。まだ十分じゃない。ユーリンは這うようにして起き上がると、グウェンの傍に寄っていった。  私は。私は助けるんだ。絶対に。 「……今、治療しますから」  見よう見まねでしかない。けれど、試す価値はある。  ユーリンはグウェンの長袍の前を肌蹴ると、傷口を検めた。確かに深い。でも、すっぱりと斬られているのが救いか。ユーリンの技量は高くない。きっと出鱈目な傷だったら、術を施すこともできなかった。グウェンの血を指で拭い、ユーリンはその血で傷口を囲むように治癒の符咒を直接書きつけていく。義荘で急な怪我人を介抱する姿を数回だけ見たことがある。その時に使っていた術を試すのだ。  符咒を全て記し終わると、一度ごくりと唾を飲み込む。もう後戻りはできない。 「……我が力、我が願いよ、この者の傷を癒し、安らぎを与えよ。急ぎて律令の如く成せ――」  呪文は出鱈目もいいところだ。もともとルールなどあってないようなもの。願いを言葉にのせることで更なる力を引き出すおまじないのようなものだ。  ユーリンはありったけの霊力を込めて祈った。  かざした両手から溢れた光が符咒に流れ込んでいく。  もっと、もっと。もっと強く――!  ……生きている先生に、もう一度笑って会いたいから、だから。  光が弾けて、一瞬目が眩む。体が内側から焼けそうになる。それでも堪える。  目が慣れてくると、ユーリンは慌ててグウェンの容体を確かめた。  脇腹に赤い痕がはっきりと残っているが、出血自体は止まっている。顔色がみるみると回復して、血色が戻っていくのが分かる。呼吸は正常に戻りつつあり、鼓動も確かに伝わってくる。 「……うまくいった、のか。よかった……先生……」  脱力した瞬間、一気に眠気が押し寄せてきた。もはや限界である。ユーリンはグウェンの隣に横たわると、そのまま目を閉じた。 「……せん、せ……」  眠りに落ちるのに数秒もかからなかった。  目蓋の裏の安息。自分だけの暗闇の中で、ユーリンは幾つもの天灯が空の彼方に昇っていくのを見ていた。  揺れる小舟に横たわり、ひとりきりでずっと、小さくなっていく光を見上げていた――。  § 「もう、ユーリン! 動かないでくださいまし。眉毛を切り落としてしまいますわよ」 「うー、わ、わかった。さすがに眉無しは困るものね。上手にやってね」  夕刻の義荘の庭。  椅子に座ったユーリンの髪を雪蓮が梳いていた。古い鋏が、ぎょきぎょきといういかにも錆ついた心許ない音をたててユーリンの前髪を切っていく。  他人に髪を触られるのは苦手だけれど、雪蓮なら大いに安心だ――。  雪蓮の腕前に身も心も委ねながら、ユーリンはふと湧いた疑問を口にした。 「ところで、雪蓮って誰かの散髪はしたことあるの? とても手慣れているからさ」 「それはもちろん何度もありま、うあっ」 「えっ……なに今のうあって声、ねえ!? 雪蓮なにか言って!?」 「あ……う、えぎゅ……」  前下がりにした髪のうち、右の束が無惨にも切り落とされてしまったことにユーリンが気づいたのは、それから五分ばかり後のことだった。  周荘への小旅行から一週間。  義荘に戻った一行は、ようやく日常を取り戻しつつあった。  ――先ほどの事件は、その矢先に起こった小さな悲劇だった。 「雪蓮! 雪蓮っ! 私怒ってないから、全然大丈夫だから! ね、出て来てよ。このとおり!」 「ユーリンもこう言っていることですし、雪蓮……そろそろ気を取り直して下さると助かるんですけどね? ほら、夕餉のお支度とか、舌が肥えてしまった今ユーリンだけに任せるのはいささか不安があるし……」 「それどういう意味ですか?」 「いや、その……せ、雪蓮、なにか言って! 僕を助けてくださいよ雪蓮!」  二人が扉越しに呼び掛けると、部屋の中から悲しげに啜り泣く声が漏れ聞こえてくる。  事態に打ちひしがれるあまり自室に閉じ籠ってしまったのは、ユーリンではなく雪蓮だった。 「……うっ……ひくっ……わ、わたしっ、このような取り返しのつかない失敗をしてっ……もうユーリンに合わせる顔がありませんわ……よりによって、だいじな髪を切ってしまうなんて……うぐっ……ある意味眉毛よりも罪業が深いですの……」 「いやぁ、眉毛じゃなくてよかった、ほんとに」 「ちょっ、先生! あの……雪蓮……それじゃ、一緒に野菜の皮むきをしてくれないかな。量が多くて私ひとりで困ってるんだ。ほら、雪蓮の方が料理上手だし」  ユーリンが説得の方向性を変えて呼びかける。  すると、ようやく鼻をかむ音と身支度を整え始める気配がした。 「そ、それじゃ……ご……五分待って……くださいませ……。すぐに……いきますわ」  雪蓮の心の傷はとても深いらしかった。  返事を聞いて顔を見合わせ、ユーリンとグウェンは霊廟の方へ向かってしばらく無言で歩き続けた。  しかし、どちらともなく限界を迎えると、声を上げて笑い出した。忍び笑いはやがて大笑いへと変わっていった。ひとしきり笑った後、グウェンが目尻を拭いながら言う。 「それにしても、また盛大に事故ったものですね。鋏は新しいのがあった筈なんだけどなぁ」 「雪蓮でもこういうこと、あるんだなぁって。本人には悪いけど……」  本当におかしくて、とユーリンはまた笑い出す。  ユーリンの髪は結局左右非対称にしたまま、グウェンが切り揃えて片をつけた。斬新な髪形は義荘を訪れる客の目を引くかもしれないが、まあ仕方がないだろう。  ユーリン本人は納得しているし、不満もない。逆によい気分転換にもなった。ただ、雪蓮のことは不憫であるが、しばらくはこのえも言われぬ面白さを引きずってしまうだろう。  ルオシーが遊びに来たら内緒で聞かせてやろう、そう思ってにやつきながら歩く。と、ふと向けられた視線に気がついた。笑顔をひっこめたグウェンがユーリンの横顔を見ていた。 「……痕、残ってしまいましたね」 「気にしてませんよ。先生のほうこそ刀傷が残ってしまって……私の力が足りないばかりに、本当にごめんなさい」 「よしてくださいよ、こちらの方こそ気にしていないのだから。それにこの傷は呪いのようなものだ。生きている限り消えることはない」  ユーリンの左目には火傷の痕がまだ残っている。それに背中と、脚にも少しだけ。  半僵尸化した身でありながら陽光を浴びてしまった代償は大きかったが、後悔はしていない。しかしながら、伸ばした髪がそのまま傷を隠してくれるなら、その方がいい。それで左のお下げだけ残して切り揃えてもらったのだ。  グウェンがやおら立ち止まったので、ユーリンもそれに合わせて横に並んだ。 「……先生?」 「ユーリンは僕を憎むと思っていました」 「まさか」  いつもは真っ直ぐな筈の紺碧の瞳が揺らいでいた。ユーリンはそこにほんの僅かな痛みを感じ取った。グウェンは、ずっと言おうとして、それでも言えなかったことを言おうとしている。 「僕はあいつの……ジーンの弟なのですよ。それに、君にずっと消えないかもしれない傷を負わせた」 「……先生だって、実のお兄さんを討とうとしているじゃないですか。本当は好きなのに。殺したくないのでしょう」 「僕の私情など、ユーリンの事情には関係のないことです」 「それでは、私が先生を憎めば、少しは楽になれますか?」  その言葉にグウェンが目を見開く。 「先生。あまり私をみくびらないでください」  ユーリンは決然として言った。 「私は、私自身の傷なら自分で背負えます。先生が心配するようなことじゃない。ジーンのことも、先生とは関係ない。私が自分の意志で奴を憎んだ。飛僵化したこの体は自分自身の罪です。それに、先生はもう私を十分に救っていますよ。だから……どうかこれ以上重荷を背負わないでほしい」  そこまで言い切ると、急に恥ずかしくなってきた。  どうにも、喋りすぎたかもしれない。それに、口のきき方もなっていない。  ユーリンは急激にしゅんと萎えながら、なんとか言葉を続けようと努力した。 「……え、と……なので、ですね……その、すみません。言い過ぎました……怒ります、よね? やっぱり……」 「まいったな」  すると、グウェンがふいに手を伸べて、ユーリンの髪を撫でた。そのままそっと左目に触れて、頬へ手のひらが添えられる。大きくて温かな手だった。 「憑き物まで落としやがって。言われンでも、オマエを重荷になんか思わねェよ」  その手はすぐに離れてしまうかと思ったのに、今夜はそうはならなかった。 「つーかその目も、背中も、ぜんぶすぐにオレが治してやるから」 「はい」 「……だから、まだ逝くなよ。ユーリン」  ようやくそう言い終えると、グウェンは触れた手をひっこめようとした。ユーリンはその手の上から、そっと自分の手のひらを重ねた。今夜はもう少しだけ、触れていてほしかった。 「はい。私はずっと先生の傍にいます。約束、ですよ?」  グウェンの紺碧の瞳には、笑顔のユーリンが映り込んでいた。自分で思うよりも遙かに眩しく笑うことができるのだと、ユーリンは今夜初めて知ったのだった。   第四話 了 
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