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第五話 鬼新娘 〈1〉
第五話
鬼哭啾々たる古戦場。
朱い月が濁った光を放ち、星々の煌めきすらも黒く塗り潰す不吉な真夜半。
膨れ上がる陰気によって起き上がった数十体の僵尸が、二人の若者を取り囲んでいた。
屍妖怪である彼らは生者の生血を啜り、肉を喰らう。まして、今夜は満月。もっとも僵尸が狂暴化する夜だ。若く新鮮な贄を前にして、屍の軍団は一体、また一体と数を増していく。
……そんな地獄めいた光景を眼前に、しかし青年たちは不敵に笑っていた。
「今夜はえらく数が多いねえ。ちょっとビビってるんじゃなぁい? グウェン」
「誰が。ジーン、オマエこそヘマすんじゃねェよ。お兄チャン!」
片方はしっとりと濡れたような黒髪に赤橙色の瞳――傾城の美姫のごとき相貌の青年で、こちらの方が年嵩である。
もう一方は、長い黒髪を束ねた紺碧の瞳の少年だ。切れ長の眼は炯々と輝き、人を射すくめるような鋭い眼光を放っている。正反対の雰囲気を纏った彼らは、二人組の若い道士だった。
「やれ、グウェンは本当にお兄チャン大好きっ子だからねぇ」
「てめっ、本当のことを言うな! 恥ずかしいだろうがァ!」
背中合わせの二人は軽口を交わしながら、僵尸たちと対峙する。
白僵、紫僵、緑僵。幾年月を経ても朽ち果てず、その過程で妖力を得たあらゆる範疇の僵尸混成部隊。そのどれもが正しく弔われず、この世に怨みを抱いて死んだ者たちだ。
「いつでもイケるぜ」
グウェンが呪符を構え、
「それじゃあ、始めようか」
ジーンが剣を抜く。
「――招雷!」
舞い飛ぶ呪符が、迫りくる前列の白僵を直撃する。眩い光が僵尸たちを浄化の炎で包み込む。
「まず、三」
「呀ァァァァァァァァァァ……!?」
寒光一閃、また一閃。
雷光の影から飛び出したジーンの倭刀が、怯んだ僵尸たちを両断していく。
「四、五、六ぅ!」
符咒で強化された黒刃は僵尸の硬化した体をすっぱりと斬り捨て、ジーンの意のままに振るわれる。舞い踊るような足運びで、ジーンは次々と獲物を屠っていく。
剣刃乱舞。
「七、八、九――グウェン、行ったよ」
「言われンでも――わかる、ッての!」
墨壺を手繰り、自らの血を吸わせた黒縄で紫僵ども縛り上げ、グウェンが咆哮する。
「急急如律令!」
その身を縛められた紫僵の肉が爆ぜる。
剣光がたばしり、動きを止められた僵尸たちの首が転がる。
「十三、術の腕をあげたね」
「それでもジーンの方が上だ、十五――」
「十六。それじゃあ、おれがもっと高い場所へお前を連れてゆくよ」
足運びを変え、素早く立ち位置を入れ替えながら、二人はひたすら僵尸どもを屠っていく。完璧に連携の取れたその立ち振る舞いは一対の双剣ごとくあり、両者が揃って初めて発揮される業前であった。
青年道士らの手によって、見る間に僵尸の軍勢は駆逐されていった。
無数の呪符が舞い、すべての亡骸を浄化・封印していく。
「お仕事終わりィ、ってね」
刀を鞘に収め、ジーンが緩く微笑んだ。
辺り一帯に結界を張り終えたグウェンも、ジーンの許へと駆け戻る。
ほどなくして、荒野は蒼い炎に包まれた。音もなく無数の骸が燃え始める。
この場所が再び戦場にでもならない限り、僵尸が発生することはもうないだろう。
「……まあ、ここが終わっても、おれたちの仕事がなくなることはないんだろうけど」
「ジーン、どうしたよ?」
「グウェンはさ、考えたことはない? おれたち霊幻道士って、なんなんだろうってさ」
ジーンはどこか遠くに視線をやったまま、振り向きもせずに問うた。
それが本当に自分に向かって発された問い掛けなのか、グウェンには分からなかった。
「おれたち霊幻道士は……そりゃ、生者を生かし死者を葬る――その為に生き続ける存在だろうが?」
グウェンが首を傾げてみせると、ジーンは慈しむような笑みを浮かべて返した。
「そんなのはただの掟だろう。爺様方がおれたちに教え込んだ決まり文句さ。おまえ、自分の頭で考えたことはないかい? これが、人間が生きる限り永遠に終わらないお役目だったらどうしようって」
「……永遠に終わらないって、どうゆうことだよ?」
じりじりと燃えゆく荒野を瞳に映し、ただ静かにジーンは佇んでいる。そう見えた。
ジーンは激情の片鱗など感じさせずに、いつもの通り凛としたまま、淡く微笑んだ。
「ねえ、グウェン」
ジーンはグウェンの紺碧の両目をじっと見つめ、ふいに訊ねた。
「一緒に逃げちゃわないってお兄チャンが誘ったら、グウェンはどうする?」
「は? なにを言って……」
「故郷もお役目も捨てて、逃げて逃げまくって、どこかの都に身を隠してひたすら楽しく生きるの。案外いい線いってると思うんだけど?」
唐突な問いかけに困惑し、答えに窮すれば、ジーンは突如ニッと唇の端を釣り上げた。
「冗談冗談。やーい引っ掛かったぁ。単純おバカちゃんだねぇ、グウェンは」
「……悪かったな、単純馬鹿で。オレはどうせジーンみたいに思慮深くは出来ていないよ」
「あれ? 気にしたぁ? メンゴメンゴ~。今夜はお兄チャンが奢ってやるからむくれるなって。やっぱアレ、かわいー女の子といっぱいヤレるお店がいっか? ちょうど精気も足りてないしぃ」
「酒でいいよ。オレは女とヤるより、ジーンと呑むほうが楽しいんだ」
「おぎゃ――ッ! おれの弟がこんなに超絶カワイイだなんて罪で罰だ! おれはなんか謎の奇病で死ぬッ!!」
奇声を発したジーンによってめちゃくちゃの揉みくちゃに抱きしめられながら、グウェンは溜息を吐いた。ジーンの気まぐれも、おかしな言動もいつものことだ。違和感など何もなかった。少なくとも、そうやって自分に言い聞かせて忘れてしまえば、いつもの日常に戻れる。そう思っていた。それほどにジーンになにもかもを委ね、信じ切っていた。
この時は、まだ。
――――――
月のない夜。
故郷が――霊山が燃えていた。
あの世を、魔法を信じぬ者どもが大挙して押し寄せ、仙山に火を放ったのだ。
殺到する僵尸たちを切り捨て、身体のあちこちに深手を負いながらも、グウェンは必至に走って、走って、走り続けていた。
腹を裂かれ、臓物を引き出され、首を括られた師父の死体を見た。愛しき母は弟妹たちを抱いたまま斬り殺されていた。
そうして、生きながらに焼かれ、切り伏せられた数多の死体を踏み越えた先に、愛しい人間の姿を借りた怪物がいた。
「……ジーン!」
「グウェン……」
炎の向こう側で、兄がこちらを見つめていた。
おまえだけはここまで来ると信じていたよ。幽鬼のごとくに美しい貌をゆがめ、ジーンはそう言った。
「師父を縊り、母上を斬ったのは……みんなを殺したのはッ! 全部、ぜんぶお前がっ……どうして! 一体なんでこんなことを、師兄さん!」
グウェンは燃えるような瞳でジーンを睨みつけ、声を荒げた。しかし、ジーンは淡く微笑んだまま、静かに口を開いた。
「グウェン。おれはだめだったよ。どうしてもだめだったんだ」
ジーンは困ったように笑っているだけだった。その頬も、手も、その手に握った刀も、体中が血に塗れていた。彼らの家族と仲間たちの血に。
「怨みつらみも、憎しみも、悲しみすらも、すべてこの世から消えはしない。おれには救えないんだ。だれひとり、だれだって――おまえですら」
「何を……言っているんだ」
「おれは一生懸命探したよ。僵尸を一匹残らず殺す方法。おまえとおれの……このつらくて重いお役目を終わらせる方法を。でもね、わかったんだ。やつらはいなくならない。だって人間は憎み、欲しがる生き物だから。人間がいる限り僵尸もいなくならない。それが、殺すほどにわかってしまったんだよ。だから、おまえもおれも一生、あるいはそれよりも長く因果に囚われたままになる。ずっと人間を、僵尸を殺し続けるだけの……この世のドブ浚いをさせられる道具として神さまたちに使われる羽目になる。だけど、そんなのは嫌だろう?」
「……ジーン。生者を救い、死者を葬る。霊幻道士の掟は絶対だ。オレたちは互いに誓った筈だ。何があろうとこの道を歩むって」
「ああ、グウェンは本当にいい子だなァ。だからお兄チャンとして、おまえだけは絶対に守るって決めていたのにね。本当に、本当に悔しいなぁ。おれにはもうこれだけ、おまえのことだけは救おうって決めていたのに。おまえが生まれたときから、おれは一人じゃなくなった。殺すばかりのおれにも守るものができたって思えた。だからつらい修行だってなんだって耐えられた。やがておまえが成長して、守るだけじゃなく、背中を守られるようになった。おれにはそのどれもがとても嬉しかったんだよ。まるで夢を見ているような日々だった」
語れば語るほどに、人として大切な何かがジーンから抜け落ちていくようだった。最後の最後まで言い終えたジーンはひどく昏い目をした抜け殻となっていた。
「でも、おれは霊幻道士としても、おまえの兄としても失格だったってわけだ」
「そんなこと……そんなことがあるかよ!」
「なら、グウェン」
炎の向こうで、ジーンがこちらに手を伸べた。ジーンは泣きそうな顔をしていた。あるいは泣きそうな顔になってなお笑っていた。
グウェンには退路も、そして進路もなかった。ただ無慈悲に選択だけが突き付けられた。
「一緒にここから逃げよう? 全部捨てて。ふたりだけで」
……もし。あの時、先んじて気づいていたら。オレがジーンを止めていたら。
あるいは、オレが差し伸べられた手を取って逃げ出していたら。
……やめよう。きりがない。いくつ仮定を並べても、失われたものは二度と戻らない。
それよりも、ジーンは「上海でまた会える」と言った。魔都で奴が何をしでかそうとしているのか、まだ分からない。だが、細心の注意を払わねばならないことは確かだ。
これ以上、生者の命を奪い、死者の尊厳を踏みにじることを許してはならない。
奴は、オレが殺す。
あの時、ジーンの手を取れなかったこの手は今そのために在るのだから。
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