第六話 Heaven and Hell 〈1〉

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第六話 Heaven and Hell 〈1〉

 第六話   上海租界。黄埔江沿い、パブリックガーデン。  遡ること四半刻前。  一人の奇妙な中国人が敷地内を跳ね回っているのを見とめた者たちが、彼を遠巻きに誹り、揶揄し、ひそひそと囁き合っていた。  そのうち、業を煮やして詰め寄った男たちが彼を直接罵倒し始めた。 「犬と中国人は立ち入るべからず、お前は字も読めないのかよ!」 「お前らのためにわざわざ漢字で書いてるっつーのになァ!」 「だいたい変な紙を額に貼っちゃってさ、なにそれ。そっちじゃそんな服飾が流行ってるわけ?」 「なんとか言えよ、剥がしちまうぜ?」  それがけしてやってはならぬことだと、誰も教えることはできなかった。  彼を寄ってたかってこきおろしていたうちの一人が、ついに額に貼られた一枚の紙――呪符を引き剥がす。  男どもは知らなかった。もともと、この地に伝わる古い伝承など知る由もなかったのだ。 「呀ァァァァアァァアァァァァァァァァァァァァァァッ!」 「いぎゃっ! ひぃ……ぎぃぃぃぃぃっ!?」 「なんだ、こいつぁぁあッ……ぎぃやぁぁぁっ!」 「なな、あぐっ!? 喰われてッ! 食われてやがッ、ぐひゃぁあぁぁぁッ!」  ……そして、災厄はばら撒かれた。  § 「……ひどい」  悲鳴。血しぶき。辺りには激しく欠損した人間の四肢や頭部が転がっている。  駆け付けた一行の目に飛び込んできたのは、半ば地獄と化した公園の惨状だった。  僵尸――その国の言葉では吸血鬼(ヴァンパイア)へと転化した人々が跳ね回り、哀れな犠牲者たちの血を啜り、肉を喰らっている。夜の公園にはまだ相当数の人間がいたらしく、逃げ遅れた人々が真っ先に転化した僵尸たちに喰い荒らされていた。 「僵尸に咬まれたものは、死してなお動き回り、同胞をも喰らう鬼へと転化する。どうやらこの法則は中国人だけに当てはまるものではないようですね。彼らを僵尸と呼んでいいのかどうか分かりませんが……。ユーリン、雪蓮、これ以上被害が広まらないよう結界を張りますよ」  呪符を構えたグウェンが素早く指示を飛ばす。 「元凶も探して確保しなければなりませんね。ジーンがここを混乱させるために放った最初の僵尸がどこかに……」 「お二人とも、あちらを見て!」  悲鳴じみた雪蓮の声に振り返る、と。真っ黒く上背のある僵尸が教会の傍をうろついている。  そしてそこに降り立ったのは――ジーンだ。 「やあ、来たね。主菜に間に合ったじゃないか」 「ジーン……! テメエ、何のつもりでこんなことをしやがるっ」 「実験と製造の続き、だよ。誰かさんが水月客棧を壊してくれちゃったからね。代わりの場所が必要になったってだけ。さあさ、お立会いだよ。これなるは、世にも珍しい〈人造鬼〉誕生の瞬間だ――」 「なッ!?」  ジーンは先ほど奪った八卦鏡を掲げると、それを叩き壊した。輝く破片が舞い散り、封印されていた幽鬼が外に躍り出る。 「縛!」  墨壺を手繰り、幽鬼を束縛すると、ジーンは驚くべきことを僵尸に命じた。 「さあ、喰らえ。この魂はおまえの餌だ。欲しいだろう、魄だけを埋め込まれたおまえはいつだって魂を求めて喰らい続けているのだから」  呪符を埋め込まれているのだろう。ジーンの命令に僵尸は従順だった。一呑みで幽鬼どもを喰らってしまうと、すぐに僵尸の外見が変化しはじめた。 「させぬ!」  変化を遂げる前にそれを倒そうとグウェンが疾駆する――が、ジーンが漆黒の刀を抜き放ち、襲い掛かる。剣光がたばしった。 「おっと……邪魔は困るよ。今夜きみらが戦うのはあの子なんだから、さ!」 「僵尸と幽鬼を掛けあわせるのは鬼を生み出す禁忌の法だ。オマエはどこまで腐り果てやがった、ジーン!」 「骨の髄まで、かな?」 「オマエの中にはもう霊幻道士としての矜持は一欠片もないのかっ!? ジーン、オレの兄としての――人としてのオマエはもういないのかよっ!」 「……その男は死んだよ。それこそ十余年も前にね」  鍔迫り合いを演ずる両者の背後では、変化を始めた僵尸が人造鬼とやらの姿に変わりつつある。ぶよぶよと皮膚が波打ち、水死体のごとくに膨れ上がったかと思えば、次の瞬間にはまるで生者のような肉づきへと変貌している。  その皮膚を内側から突き破りかねない勢いで暴れ回っていた骨格も次第に形を定め、鋭い爪をもった小さな人型へと収束していく。 『亞ァァァァァァァァ! 亞亞亞ァァァァァァァァッ!』  生み出された人造鬼は吠え声――否、おぞましい産声を上げて身を仰け反らせた。  それを合図に、ジーンが地を蹴って後方へ飛び退く。 「ハッピーバースデイ! さあ、行け。饗宴の時間だよ」  ジーンが鬼の背に触れると、埋め込まれた符咒が内部から燐光を放ち、紋様のごとくに浮かび上がる。やはり、命令系統をあらかじめ埋め込んだ僵尸を使役していたのだ。真っ黒な双眸に鬼火が灯り、どろどろと汚液のような涎を垂らした人造鬼がユーリンたちを見据えた。 「それじゃあ、楽しいお食事タイムを。きみらの運がよければまた会うよ」  ジーンは軽功を用いて音もなく跳躍し、鐘楼の闇の中へと消え去った。 「先生!」 「……こっちゃ怪我してねェよ。それよか、あいつだ」 「何なのですか、アレは。随分と小さくなっちゃいましたけど――」 「あれは人造鬼だ。魄のみ持つ僵尸と霊魂主体の幽鬼を掛けあわせると鬼になる。オマエらが封じた幽鬼よりも厄介で、そこいらの僵尸の千倍は強力な化物だ」 「それって……どうすれば」 「来るぞ!」  ゆらゆらと立ち尽くしていた筈の人造鬼が地を蹴った――かと思うと、もうその瞬間にはこちらに肉薄し、爪を振り上げている。 『壓亞ァァァァァァァァ!』  振り下ろされた腕が広場の道に穴をあけ、敷き詰めた煉瓦が砕かれる。間一髪、雪蓮を抱えたユーリンは芝生へ飛び退き難を逃れた。 「雪蓮、平気か?」 「はい……でも、グウェン様が!」  辺りに立ち込める土煙の中からグウェンが飛び出し、即席強化した倭刀で切りかかる。 「だらぁぁぁぁっ!」 『壓ァァァァァァ!』  ――速い!  初撃を避けただけで奇跡的。だが、次――横薙ぎに襲いくる爪から逃れる術をグウェンはもたない。人造鬼の一撃がグウェンの胴を薙ぎ払い、衝撃で飛ばされた体が教会の壁に叩きつけられた。 「先生ッ!」 「グウェン様っ」  完璧に斬られたかに見えたグウェンだが、悲鳴じみた呼び掛けに応えるように、よろよろと這い上がる。 「問題、ない……っが、ちと、効くねェ、こりゃ……」  破れた長袍の裏には符咒が記されていた。この書き付けが咄嗟の防御――身代わりの役目を果たしたのだ。だが、二度目はない。と、その時。背後から悲鳴と怒号が響き渡る。転化した僵尸たちが逃げ遅れた人間を襲っているのだ。 「こんな状況……どうしたら」  前には人造鬼。後ろには僵尸。放っておけば被害は拡大する一方だ。  しかし、打つ手は? いったい自分には何が出来る?  ユーリンはぎゅっと手を握りしめた。爪が自らの掌に食い込むほどに強く。そこにグウェンの鋼の声が響いた。 「……ユーリン、雪蓮。まだ戦えるよなァ?」 「は、はいっ!」 「戦えますわ!」  既に自力で立ち上がっていたグウェンが二人を見ていた。 「奴らをここから出すわけにはいかない。だが、結界を張れるのはオレだけだ。だから、オマエたちには僵尸を片付けてもらいたい。雪蓮は広場の転化した奴らを、ユーリンは人造鬼を――できないとは言わせない。来な」  グウェンは自らの血と墨を混ぜた朱墨で、雪蓮の額に経文を書きつけた。 「これは……?」 「強化の符咒だ。雪蓮なら、ンなもんなくとも平気だと思うがねェ。ちょいとおまじないさ」 「……心強いですわ。では、まいります」  雪蓮が、すっと目を閉じる。その姿が一瞬にして媚肉の怪異に置き換わる。それは、あのレッド・ダリアで目にした時よりも数段禍々しく美しい姿だった。彼女は力を解放して、本性を露にしたのだ。  雪蓮はそのまま疾駆――逃げ惑う人々に襲い掛かる僵尸を退治に向かった。 「さて、ユーリン。オマエにはオレのありったけを叩き込む。オマエは元々無理くり魂を固着させ、ジーンの符咒を書き換えて造った飛僵だ。霊力と符咒さえありゃ、一時的に特殊霊魂化することができるだろうよ」 「特殊……霊魂?」 「あの世とこの世の境目の存在、どちらの世界の法則の支配も受けない特別な存在になるってことさ。要は一時的に超強くなれますよってことだね」 「そんな、ことが……可能なんですか」 「ああ、できる。だが消耗も速い。もって五分というところだ。それで奴を仕留めろ」  出来る、とはいえない。でも、それしかないことは分かっている。  ユーリンはこくりと大きく頷いた。両手をユーリンの胸に当て、グウェンはありったけの霊力を込めて念じた。 「急急如律令! イキな、ユーリン!」  瞬間、ユーリンの中に霊力(ちから)が溢れた。  颯の如く駆け出すと、ユーリンは湧きだす力のままに拳を振り下ろした。 『壓亞ァァァァ!?』 「得たり!」  ざむっ、と大地を踏みしめ、カウンターに備える。右から来るか、否、左だ。鋭い爪がユーリンのいた空間を薙ぐ。  動きが目で追える。攻撃を躱し、逆に当てに行くことができる。  いける――!  このまま形成を逆転させなければならない。  確かな手応えに勇気を奮い起こして、ユーリンは再び一歩を踏み出した。 「……頼むぜぇ、お二人さん」  その様子を見届けると、グウェンも精神を集中させて祈り始めた。全神経を研ぎ澄ませ、公園の四方に霊力の防壁を張り巡らせていく。  全身が痛むが構ってはいられない。雪蓮に、ユーリン。二人が戦っている限り、自分も役目を果たさねばならない。  グウェンは結界を編み上げると、それを維持すべく意識を集中させた――。
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