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第六話 Heaven and Hell 〈2〉
「殪ィィィィィィァァァッ!」
雪蓮の放った不可視の斬撃が、僵尸の体を八つ裂きに薙いだ。
今ので三体目を屠ったところだ。あの元凶――人造鬼となった僵尸を含め、残りは十三……いや十二体というところ。急がねばならない。広場のあちこちで悲鳴が上がるため、そちらへ行けば僵尸を捕捉できることがせめてもの救いだ。
先ほど、グウェンが結界を完成させたのが気配で分かった。この広場が隔離されている間に全てを片付けなければ、やがては街全体に被害が及んでしまうだろう。
……生存者を救い、これ以上僵尸に転化させないようにするのがわたしの役目。
あの時。崩れゆく楼閣を目前にしながら、わたしは何もできなかった。心も体も傷つき、ぼろぼろだったユーリンをひとりで行かせてしまった。
……もう二度と、あの時のような思いはしたくない。
だから、たとえ病に蝕まれた醜い姿を晒そうとも、わたしは戦う。
「喰ワセロ、喰ワセロ!」
「肉、肉、肉、肉ゥゥ!」
逃げ惑う紳士より旨そうだと判断したのか、転化した二体が雪蓮へ狙いを変えて襲い掛かる。
――好都合ですの。
「戮ゥゥゥゥッ……!」
片方を触手で絡め取り、もう片方に爪を突き刺す。
ああ。もっと、もっと、もっと獲物を。
わたしはもっと強くなって、この呪わしき力を、せめて誰かを守るために振るえるように――。
たとえそれが死出への誘いであろうとも。
返り血を浴びてなお美しい媚態を晒し、雪蓮は僵尸たちを鏖殺していった。
……すごい、と思った。
この特殊霊魂という状態は、本当に素晴らしい。
世界は色づき、速く、それでいてゆっくりで――すべては私のものだと思える。
相手の動く軌道が見える。それも相手が動き出すより早く。
ユーリンは人造鬼が繰り出す鋭い爪を次々と躱し、それどころか攻勢に転じてすらいた。
しかし――
「くっ……はぁっ、はッ、はぁっ……。もって五分というのは……ほんと、みたいだな」
あの世とこの世、どちらにも属さぬこの状態はひどく消耗する。霊力が根こそぎ吸い取られていく感覚に、軽く眩暈を覚え始めている。
このままじゃ……不味い。ここらで一気に片をつけねばならないだろう。
膂力は互角。速さはあちら、技はこちらが上というところ。
なにかもうひと押し――自分の攻撃にもっと爆発的な威力があれば。
「破ッ」
首ごと薙ぎ払おうと襲いくる爪を躱し、拳で顎を打ち抜く。下から突き上げた一撃に大きく鬼の体が傾く――が、起き上がりこぼしの要領で再び体勢を整え、刺突を繰り出してくる。
人造鬼はそれほどまでに硬く、同時にしなやかで、まさに魂魄両方の力を備えた化物だった。
ユーリンとて負けてはいない。だが、このまま決定打に欠ける状況が続けば時限による敗北を迎えるだけだ。
「――ユーリン。これを使え!」
グウェンの声が響く。同時に、こちらに投じられた何かを引っつかむ。
そうか――爆発力。
『亞亞亞亞亞亞ッ!』
追撃が来る。左。ユーリンは右に体を逸らして爪を躱す――と僅かに生じた隙をついて人造鬼の顎を掴んだ。
「Ryaaaaaaaaaaa!」
そこへたった今受け取った手投げ弾を咥えさせ、思い切り殴打を叩き込む!
――炸裂!
光と熱が暴発し、最強硬度の頭部が爆ぜて弾けた。人造鬼の体がぐらりと傾き、ユーリンは間髪いれず四肢を八つ裂きにした。そのまま、斬って、斬って、斬りまくる。頭を潰してしまえば硬度は落ちる。理由は知らない。どうだっていい。今はこいつを倒すことだけ考える――!
「はっ……はぁッ……はぁッ……!」
ユーリンは腕が痺れ、視界が掠れるまでひたすらに人造鬼の体を切り裂いた。八つ×八つの六十四裂き――それほどにユーリンが荒れ狂ったのち、ようやく人造鬼は動きを止めた。
それをみとめて呪符を飛ばし、骸をすぐに燃やし始める。次第に赤黒く、そして完全な黒へと沈み、人造鬼の体は燃えてゆく。
ぷつり、と糸がきれたようにユーリンはその場に倒れ込んだ。特殊霊魂の術が切れたのだ。
ユーリンは息を切らしたまま芝生に寝転んで、それでも不敵に笑った。
「勝ったぞ、ジーン……!」
右の拳を打ち上げる。そこへ、こつんと優しく打ち合わされたのはグウェンの拳だった。
「やりましたね、ユーリン」
「はい。……さっきのは、擲弾……ですか?」
「試作品を横流してもらったものですが、ね。弾頭に化学剤を充填して拵えたもので、本来は投擲して使うものだ。ただ、君たち僵尸の硬度であれば、あの使い方でほぼ正解です」
「また……無茶なことを思いつくものだ」
「ユーリンを信頼しているからこそ、ですよ」
疲労が色濃く滲んでいるが、グウェンもまた微笑みを浮かべている。
信頼。それなら仕方ない。悪い気はしなかった。
「そうだ。結界は……?」
「もう必要なくなりました。君が人造鬼を倒し、雪蓮が全ての僵尸を殺した。だから……あとは負傷者の応急処置のみです」
草を踏みしめる気配がして、そちらを向くといつもの姿に戻った雪蓮が佇んでいる。着物もぼろぼろで、髪も乱れているが、無事のようだ。彼女にユーリンを託すと、グウェンは負傷者の手当て――もとい転化予防の応急処置を施すべく広場の方へと駆けて行った。
「雪蓮、すごいね。とっても……格好良かった」
「少し……無理をしましたけれど……ありがとう、ユーリン。あなたも……あの鬼を倒してしまうなんて、さすがですわね」
寝転んだままのユーリンに寄りそうと、雪蓮が頭を膝にのせて抱いてくれた。ユーリンはようやく人心地がついた気がした。
やっぱり雪蓮にはこういう姿のほうが似合うな――そう思ったが、口に出すことはしなかった。懸命に戦った雪蓮に自分の願いを押しつけることはしたくなかった。
「……大丈夫? 無理、してない?」
「平気、とは言えませんが……わたしはあなた方のために力を使いたかった。だから、いいの」
雪蓮の寿命はあと幾許と限られている。グウェンの傍で陽気と霊力を補い続けても、それは未だ変わらない。半不死者としての力を行使することでその寿命がより短くなってしまうことを、ユーリンは何より危惧していた。
「……ユーリン、そんな顔をしないでくださいまし」
「でも、雪蓮が」
「それでも、今夜はわたしたちの勝ち……ですもの。笑っていなければダメですのよ?」
ユーリンを見下ろす雪蓮は慈母のような微笑みを浮かべている。白くきめ細やかな指先がユーリンの頬を撫でた。ユーリンは涙を必死に堪えて、微笑みを返した。
「うん、そう……だね。私たちが、笑っていなくちゃ」
ようやく吹き始めた夜風が鬼たちの灰を舞い上がらせ、どこかへと吹き上げていった。
夜明けが近い。やがて戻ってきたグウェンを支え、ユーリンたちはその場を立ち去った。
引き上げて行く彼らの様子を寺院の鐘楼から見下ろす二つの影があった。
「今宵の実験はどうでしたか? 睨下」
凛と響く冷たい声はジーンのものだ。
今はすべてが終息したパブリックガーデンの模様を示し、ジーンはもうひとり――彼の背後に控え、これまでの間、常に状況を凝望していた人物へと問うた。
「まあまあかしら、ね。もちろん、魂魄を掛け合わせた人造鬼はおもしろかったわよ。大量に造れれば少しは兵力として使えなくもないわ。でも……特殊霊魂のあの子……いいわねェ」
ぎょろり、と目を剥き、舌舐めずりをして彼女は言った。
「元はあなたが造り出した僵尸なのでしょう? 限りなく人間に近い不死者を造るための実験、だったかしら」
「ええ。長命を得、道と合一する術を研究する一過程にすぎませんがね」
「わざと外に逃がした兎が狼になって帰ってくる……いい趣向じゃないのォ。欲しいわ」
「……おれとしても成果の回収には今が最適と考えていますよ」
「フフ、切り落としたモノがいきり立つようだわ。いいわよ、お行きなさいな。ジーン」
ジーンは深く一礼し、顔を伏せたまま、ぞっとするような凄惨な笑みを浮かべた。
それは誰にも気づかれることはなく――……
「仰せのままに」
闇色の長外套をはためかせ、ジーンは未明の底へと飛び込んだ。
§
一行が義荘に戻ったのは殆ど夜明け前だった。
グウェンは、まず雪蓮の体調を入念に診察し、治療を施した。それが済むと、よっぽど疲弊していたのか、うつらうつらと眠そうにしていた雪蓮は自然に寝入ってしまった。ユーリンが彼女を寝室まで運び、おやすみを言って出てくると、グウェンが法具を広げて待っていた。次はユーリンの番だった。
「……私はいいですよ、そんなに怪我、ないですし。それより先生の方が今夜はぼろぼろじゃないですか」
「そうですがね。ユーリン、君も符咒の点検くらいはしておかないと。宝珠に罅でも入っていたらことですから」
「……はい」
飛僵であるユーリンの魂魄は、ジーンが埋め込んだ宝珠にグウェンの術で上書きがなされ、固着されている。これがユーリンにとっての心臓部であり、破損すれば命取りになるのだ。
渋々といった体で頷き、ユーリンは短袍の前を開けた。膨らみきらない薄い胸板は抜けるように白く、薄桃色の先端は外気に触れて僅かに隆起しかけている。少年のような体つきを恥じながら、薄明かりの中で胸を開くと、真ん中の紅い傷痕にグウェンの手指がそっと触れた。
グウェンが短く呪文を唱える。ユーリンの中に埋め込まれた宝珠が淡く燐光を放ち、輝き始めた。そこから体中に張り巡らされた疑似経絡が仄蒼い光の筋で描き出されてゆく。
気血栄衛の流れを司る経絡を僵尸の肉体にも疑似的に設ける術が、ユーリンの体には幾重にも渡って施されていた。燐光が描き出した符咒の図像を検分し、グウェンが安心したように首肯する。
「どうやら、宝珠に損傷はないようですね。あの人造鬼、えらく馬鹿力だったから……割と心配していたのですが」
「……むしろ、先生の方が骨とか折れているのではないですか?」
「そうですね。肋骨の一二本いってる感じはありますが、ま、今は平気ですよ」
「それ全然平気じゃないですよ!? 傷、見せてください!」
グウェンの服は人造鬼の爪によって引き裂かれ、破れたままだ。その上から傷に触れると「うぎぃっ痛えェッ!?」と本気の苦鳴を上げてグウェンが長椅子に転げた。
「ぐっふ、ふっ……不用意に、ね? さ、触ると、こうなるから……やめてほし、かったん、ですよォ……!」
宙を掻きむしり、ごろごろと左右に転がりながら痛みに悶える様子はなんだか本当に不憫で、それに深刻そうだ。生理的な涙の滲んだ瞳が恨めしげにユーリンを見上げている。
「ご、ごめんなさい! まさか、そんなに痛いとは知らなくて。今度はそっと診ますから!」
転がったままのグウェンの腰に跨ると、ユーリンは今一度、細心の注意を払って傷口を検分し始めた。
「……っ! もういいから。離れてください」
「どうしてです? 傷の手当のお手伝いなら、普段だってしているじゃありませんか」
「……眺めが良すぎる。いい加減前を閉じろ。そしてどけ」
それだけぶっきらぼうに言うと、グウェンはぷいと横を向いて視線を逸らしてしまう。
ユーリンは半裸のままで師を押し倒す形になっていたことにようやく気づいた。
気づいた上で、自問する。
……先生は、もしかしてこの格好が恥ずかしいのだろうか?
こんなに貧相で、ぼろぼろになるまで弄ばれた穢い子どもの体でも、この人は情欲を抱き、私を好いてくれるというのだろうか?
「……先生は」
ユーリンは退かなかった。それどころか、身を乗り出し、零距離からグウェンの瞳を覗き込んでいた。
「……先生は、嫌ですか?」
精一杯勇気を振り絞って、でも、唇は自然に問うていた。
ずっと、何回も、何度も頭のなかで繰り返してきた言葉だった。眼前で紺碧が揺らいでいる。触れた肌は確かに熱かった。でも、答えは返らない。
……やっぱり、そうだよね。当たり前だ。私のような化物が期待などしてはいけない。
僵尸は生前に奪われた一切合財を求めて彷徨い歩くのだという。ならば、きっと私もそれに違いないのだろう。
長椅子から手をどけて、身を起こす。ユーリンはいつものように微笑んだ。何度も練習した通りに笑ってみせた。しかし、この表情すらグウェンからすればただの化物のそれにしか見えていなかったのだろう。
「やっぱり、一度死んだ子どもの体なんて、汚くて醜いだけですよね。まして、私はもう女の子ではないし。へんなこと聞かれて、きもちわるかった……ですよね。ごめんなさい。出来れば……忘れてください」
いつものように笑って誤魔化すと――誤魔化せればよいのだけれど――ユーリンはグウェンの体から離れようとした。
その手をぎゅっと掴むものがあった。グウェンがユーリンの手首を掴まえていた。
「……オマエはずっと、そんなことばかり考えていたのか」
紺碧の瞳がこちらを睨んでいた。先生は、ひどく怒っている。
それがユーリンを打ちのめした。
叱られる。分かっている。でも、抱いてきた気持ちを否定されるのは怖かった。
「やだな。ほんの……冗談、なのに、お説教なんて嫌、ですよ」
「義荘に来てからも、ずっと自分は汚いと……もう女でもなんでもないただの屍の化物だと、オマエはそんなことばかり考えて、我慢ばっかしてきたのかよ」
「悪い、ですか? だって全部ほんとのことじゃないですか!」
堰を切ったように、今まで抱えていた恐怖や後悔、罪悪感が涙と共に溢れ出る。
「わ、私っ、はっ、あの場所で全部奪われてっ僵尸に、されて、でもっ、みんなのことを置いてひとりだけ逃げてきた……人間でも不死者でもない出来そこないの怪物……ですよ。なにも願う資格なんかないっ」
「馬鹿野郎が」
ユーリンの膂力ならば、その手を振り払うことなど簡単にできたはずだった。けれど、抗いがたい力でもって引き寄せられた体は、グウェンの腕に抱かれていた。こうして抱き竦められれば、ユーリンの体は体格差から完全にグウェンの腕の中に収まってしまう。
「……先、生?」
頬が触れ合い、黒い前髪が鼻先をかすめる。至近距離で見つめ合う瞳は真剣で、ユーリンには少し恐ろしかった。
「嫌なものかよ」
鋼の声は少し掠れていた。グウェンは言うまいと押しとどめていた言葉を紡ごうとしている。
ユーリンはその腕の中で、ぐっと身を固くした。
「多分、オレはひどくオマエのことが可愛いんだ。だから、オマエを傷つけることだけはすまいと、せめて少しでも穏やかに暮らせればいいと思ってたンだがね。多分、オマエはオレが触れたら余計に苦しむだろう?」
「そんな、こと……知らなかった、です」
「そう思って、ずっと耐えてきたってのに、それが裏目に出たんじゃ世話ねえな」
グウェンはそう言うと、苦笑してみせた。ずいぶんと苦味の勝る笑みだった。
強張った体から、みるみるうちに力が抜けていった。
ユーリンは咄嗟に何か言おうとして、でも何も言えなくて、それでもやっとひと言呟いた。
「……よかった」
「よかった?」
「……こ、こわかった、から、本当は……ずっと……」
そこでとうとう何も言えなくなってしまった。でも、続きはいらなかったみたいだ。
グウェンは、ユーリンの顎に手を添えて上を向かせると、触れるだけのくちづけをくれた。
「ユーリン。嫌か」
「……いや、じゃない……です」
そのまま、もう一度唇を重ねる。もう一度。今度は深く、もっときつく。
慣れない愛撫に、うなじの毛が膨れ上がり、背筋を抜けていく得体の知れない衝動を感じた。気がつくと、ユーリンは夢中でくちづけに応えていた。不器用にグウェンの唇を啄み、挿し入れられた舌に自分の舌を絡ませ、呼吸すらも置き去りにして。不格好でも、音がしても気にならなかった。ただ、もっと自分の中に入って、熱を残してほしかった。人の温かさを。
「……ん。陽が昇るな」
そう言われて、ようやくグウェンの黒髪を淡く紅色に染める光の筋に気がついた。夜明けが来るのだ。
「……あ……どうしたら」
「んじゃ、まァ、続きはまた今度ねってことで」
体を離すと、グウェンは少し意地悪な顔で笑った。
「……生殺し、ですか。狡い……ですよ、先生」
「生殺しってオマエ、どっちがだ。とにかく今日はもう自分の部屋に戻りな。次は中途半端にはしねえよ」
「そ、それは……手加減、してほしい……です」
今更恥ずかしくなったユーリンが俯くと、グウェンは「くはは」と笑い声をあげて、頭を撫でてくれた。いつもと同じ、温かな手のひらで。
「冗談だ。おやすみ、ユーリン」
「……おやすみなさい、先生」
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