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第六話 Heaven and Hell 〈3〉
§
朝日から逃れるように扉を閉じると、部屋はたちまち生温い闇に包まれた。
ここはもう自分だけの闇、ユーリンにとっての棺のようなものだ。
僅かに蒼く透ける黒暗の中、扉に背を預けたユーリンはその場にずるずるとへたり込んだ。
なんだか夢をみているような心地だった。実際、もしかすると本当に夢をみているのかも。
体は熱くて、頬は火照ったままだった。
おずおずと指で口唇に触れる。まだ温かい気さえする。グウェンが分けてくれた熱が、たしかに残っている。夢などではない。
ユーリンはそっと目を閉じ、自分を満たす感覚のすべてをなぞった。
頬を撫ぜる柔らかな前髪。鋼の声。煙草とお香の匂い、先生自身の匂い。熱い肌に、しなやかな指。頭を撫でてくれる大きな手のひら。
……私は、もう大丈夫だ。何の確証もないけれど、そう思えた。
この先も、きっと歩いてゆける。たとえどんな運命が待っていても。
閉じていた瞳を開く――と、
「やあ。今夜は二度目だねェ、ユーリン」
黎明の蒼闇の中に立っていたのは、ユーリンにとっての地獄を生み出した男だった。
自分からなにもかもを奪い、僵尸として甦らせた仇敵。
「ジーン、貴様……この部屋の、義荘の結界はどうした」
「多少は苦労したけどね、ちょちょいってな具合に破らせてもらったよ」
結界破りの呪符をかざして見せ、外法道士ジーンは肩をすくめて微笑んだ。
立ち上がったユーリンはすぐさま腕を変化させ、ジーンに対峙する。
「おっと、グウェンやあの女の子――彼らを呼べば殺しちゃうから、余計なことはしないほうがいいよ。おれはきみに用があるんだ」
「……なんのつもりだ」
ぐるる、と低く喉を鳴らし、ユーリンはジーンを鋭く睨めつけた。
「今夜お前は洋城に鬼を放ち、多くの人を死なせた。……これ以上何をする気だ?」
「今日はもう戦うつもりはないんだよ? ただ、実験を終わらせようと思って、ね。だからきみのところへ迎えに来たのさ」
意味のわからない言葉だった。実験を終わらせる。私が逃げた時点で実験は破綻していたんじゃないのか?
しかも――それを迎えに来た、だって?
「……私を……大勢の仲間を僵尸にしておいて今さら何を言うかッ。奪われた命は元には戻らない。僵尸となった人間は今もどこかを彷徨い続けている。私だってあそこから逃げられなければ同じ結末を迎えていた筈だ」
「でも、きみは違うんだなァ。ユーリン」
「なにを言っている」
間合いは……ギリギリ。襲い掛かれば部屋を壊してしまうだろうが、致し方ない。
ジーンの狙いがなんであれ、ここから生きて返すつもりはない。
対するジーンはどこか謎めいた笑みを浮かべ、穏やかな口調で語りだす。
「あのね、ユーリン。実験には性能試験ってやつが必要なのさ。つまり、自分の造り出したシステムが要件を満たせるかどうかを確かめなくてはならないんだよ。そして、実にいろいろな試験を経た結果、君はその条件をクリアした。だから迎えに来たんだよ」
「……どういう、意味だ?」
「ユーリン、最初からきみだけは特別だったのさ。ねえ、きみは本当にあの地下実験場から自力で、しかも偶然に逃げて来られたと思っているの?」
「なにを、言って……」
一歩。
ジーンがこちらへと踏み出す。
「おれがわざときみの様子を観るために逃がしたと、そう考えたことはないのかな?」
「な、に……?」
「逃げだしたきみをグウェンが見つけるように仕向けたのは、おれなんだよ。埋め込んだ宝珠にはあらかじめ、きみがあの村に戻るよう行動するための命令も組み込んでおいたんだ」
また一歩。
ユーリンの瞳を優しく見つめたまま、ジーンが踏み出す。
「……私の行動が、あらかじめ命令として組み込まれていた、だと……?」
先ほど点検してもらったばかりの宝珠――胸の真ん中に手を触れる。
あのオーブは魄を入れる際にジーンが用いたものだと思っていたが――。
「生前怨みを抱いて死んだ存在が僵尸となる。間違った埋葬のされ方をした者が僵尸となる。そして、道士の術によって魄を入れられたものが僵尸になる。きみだって十分に知っている筈でしょう? 当然、きみの場合は怨みをもつようなやり方でおれがきみを殺し、魄を仕込んで僵尸にしたわけだけど……その際ただ何もせず、素直に魄だけをいれたと本気で思ってるの?」
「そん、な……こと」
後ずさろうとすれば、背後の扉に阻まれ、ユーリンはその場に立ち尽くすことしかできない。
足元から震えが伝わってくる気がした。だめだ。屈してはならない。でも、続きを聞くのがたまらなく恐ろしい。
「きみの意思。きみが、きみ自身の意思で行動していると思いこんでいるそれは、すべておれが設計し、組み込んだ命令によるものなんだよ」
「私の意思が符咒回路によって、あらかじめ仕組まれた……偽物だというのか?」
ジーンはただ無邪気に微笑んでいる。
そして、また一歩踏み出す。
「生前腕を奪われた僵尸は腕を、脚をもがれた僵尸は脚を探して彷徨うようになる。では、生きながらにして心を踏みにじられ、女性性を蹂躙されたきみはどうなると思う?」
「やめろ……やめろッ!」
ユーリンは両耳を塞いで頭を振った。もう聞きたくなどなかった。
「きみのような僵尸は、心の拠り所を求めて彷徨い、女性としての自分を受け入れてくれる男を求め、慕い、妄信的なまでに尽くすようになるのさ。さて、きみ自身はどうだったかな?」
「やめて……」
「きみはよっぽどグウェンのことが好きなようだけれど、それはどうしてなのかなァ?」
「私は……私は自分の意志で先生を好きになったんだ。この想いは偽物などではないッ!」
「君は魂を失った。僵尸は自らが失ったものや、生前つながりの深かったものを襲うよね。その清廉な恋心も――グウェンと言うおれの身がわりへの情愛も、つまりは全部おれが仕向けたことなんだよ」
そして、最後の一歩。
ユーリンの前にたったジーンは、ひどくやさしく微笑んでいた。
「おめでとう、ユーリン。きみはおれの手順通りに動いてくれた。きみは試験をすべてクリアした。きみはおれたちが造った僵尸の中で、もっとも人間の領域に近付いた不死者だよ」
祝福を告げるジーンは本当に晴れがましい表情で、ユーリンの肩に手をおいた。
「やっ―――」
叫ぶことはできなかった。叫べば、グウェンが、雪蓮が駆け付ける。彼らを殺されるわけにはいかない。この姿を見られるわけにはいかない。
……でも、そう憚るこの気持ちすらも、紛い物なんだ。
すべてはジーンが造り上げた偽物だった。
ユーリンはそれきり声を発することすら諦めて、ぎゅっと自分で自分の体を掻き抱いた。そうしないと立っていられそうもなかった。寒くて、怖くて、堪らなかった。
雪蓮が好き。ラウが好き。先生が愛しいと思う。これが全部ジーンの手で造られた偽物の想いだったなんて。
「私はもう……先生には会えない。愛してもらう資格などない。雪蓮もラウのことも……こんなに好き、なのに……そんなことを思う資格すらないんだ」
急速に、なにかがユーリンの中から抜け落ちていく。瞳からは光が消え失せてゆく。
「私は……私はもう、どこにもいけなくなってしまった」
その場にくずおれて、床に手をつく。そうでないと、どこまでも沈んでいってしまいそうだった。もう自分の輪郭さえ保てない気がした。
自分で掴み、歩んできた筈の道は、すべてそうなるように仕向けられたものだった。
どこにも私などいなかったんだ。
ユーリンという少女はあの地下実験場で死んだまま、二度と甦ることはなかったのだ。
なぜなら、今いる自分はただの傀儡。操り人形にすぎないのだから。
震える視界に、しなやかな手が差し伸べられた。ジーンが跪き、ユーリンに手を伸べていた。
「おれとおいで、ユーリン。元々きみはおれのものだ。元いたところに戻ればいい。それだけだ。そして今がその時だよ」
「あ……ぐっ、ああああぁぁぁぁッ!?」
ユーリンの胸に手を当てて、ジーンが宝珠を抜き出した。グウェンによって上書きされた幾つかの回路を完全に消し去り、強化の符咒を描き加えて元に戻す。ユーリンの胸の奥に、再び宝珠が埋め込まれていく。それは燐光を放ち、ユーリンの心身へと回路を広げ、経絡に従った図像を描いて消えた。
「……御命令を」
ユーリンは昏い緑眼でジーンを見上げる。
「命令を、我が、あるじ」
ジーンはそれに妖艶な笑みで応えた。
「それじゃあ――さあ、仕上げを始めようか。ユーリン」
差し伸べられたジーンの手を取り、ユーリンは義荘を後にした。
開け放たれた窓から冷たい朝の光が彼女の部屋に溢れ、その存在の痕跡を希釈していった。
第六話 了
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