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第二話 命召しませ紅い花 〈2〉
夕暮れ時の四馬路は、行き来する馬車や東洋車でごったがえしていた。
「うわぁ……これは……すごい賑わいですね」
馬車から降り立ったユーリンは、華やいだ街の様子に感嘆の声を上げて立ち止まる。そんなユーリンの姿に気づいた何人かの男どもが意味ありげな視線を送ってきたが、全力で無視する。
今、ユーリンは上等な絹の旗袍に身を包み、蓮の花を模った簪を髪に挿し、華やかに着飾っていた。
私は女ではない――これは初対面の時から今まで、ルオシーにも散々説明してきたはずだ。それなのになぜか彼が用意してきたのはこの衣装だった。これは、ルオシーが「単純に似合うから」「女役も必要だったら必要だ」「それが一番おまえにとっては自然なんだよ」「要するにこれは不可抗力なんだ」と力説し、結局なにもかも面倒になったユーリンが折れる形で納得したという経緯の呪われし衣装なのだ。
そう、私は別にこんな恰好をしたくてしているわけではないんだから――。
「ユーリン、降りたばかりで道に立ち尽くすのは危険ですよ」
「ひゃっ!?」
続いて降り立ったグウェンがユーリンの腰に手を添え、歩きだすように促した。いつもよりも相当親密な距離感に一瞬戸惑うが、すぐに思い至って素直に従う。これは事前の打ち合わせ通りの行動だ。
ユーリン同様、グウェンも普段とは違う装いだった。グウェンは丁寧に仕立てられた英国製のスーツとやらを纏っており、それが彼自身の佇まいと相まって、まるで異国の紳士のようであった。ルオシーの服装センスはなんだかんだで確かなものらしい。
「ユーリン?」
「……あ、すみません」
だって、つい見惚れていた。本当に、とても似合っている。素敵だとか綺麗ですとか、本人を前にしてそんなこと言わないし、言えないけれど。
二人が並んだ瞬間に周囲の人々の視線が集まった気がしたが、それも気のせいではないのだろう。と、すぐ傍らに寄り添うグウェンがそっと訊ねてきた。
「やはり……変ですかね」
「どうしてですか? まわりの女性の視線、みんな先生に釘付けなのに」
「だって、ユーリン。あなた義荘で着替えた後からずっとまともにこっちを見てくれないじゃないですか。だからよっぽどおかしいのかと」
「あの、そ、それは……とにかく違いますから、安心してください」
「ならよいのですが。慣れない恰好は肩が凝って仕方ありませんね……アー、終わったら蕎麦でも喰いにいこうぜ? なァ、ユーリン」
グウェンはちらりと本性を覗かせ呟いて見せる。そんな仕草さえ、ユーリンはまともに見ていられない。だって、見てしまったら全部顔に出てしまう。先生はいつも通り。何にも変わらない。自分だけがこんなに恥ずかしい気持ちになっているなんて、本当にばかみたいだ。
「よっしゃ。目的地はすぐそこだ。行くぜ、お二人さん。覚悟はいいか?」
最後に降りてきたルオシーが二人の背中をがっと掴んで引き寄せた。一発気合をいれたつもりなのだろう。かくして一行は酒楼〈大麗花〉へと向かい、歩きだした。
§
陽はすでに西山に落ちている。
果たして、〈大麗花〉は裏通りの端に位置していた。
「……何か、想像と違うというか……やけに静か、ですね?」
「そりゃ、秘密クラブが堂々としてちゃおかしいだろうが? まァ、みてろよっと――」
門を叩くと、小さな子窓に向かってルオシーが身分証代わりの銅貨を掲げて見せた。金属版には店の紋様らしきものが刻まれていた。
「どなた?」
小さな覗き窓から男が目線だけ覗かせて訊ねてくる。不愛想でつっけんどんな言い方だ。
もしかしなくても、中にいれてもらえないかもしれない。
ユーリンは不安になったが、ルオシーはいつも通り、飄々とした態度で答えた。
「ラウ・ルオシー。連れはラウ・グウェン、おれの従弟ね。それとその妻のユリンだよ」
妻、という言葉にどくんと胸が高鳴る。とっくに動きを止めた筈の心臓が疼く気がした。
これはふりだ。そう、ふり。ただの演技。それ以上の意味は何もない。
両頬をぱん、と叩き自分を叱咤する。グウェンが不思議そうな顔をしたが、全力で無視する。
ややあって、重い扉が開かれた。扉の向こうは地下へと続く螺旋階段であった。
「どうぞ、お入りください」
階段を最下層まで降りて重い扉を開く――と、その先には別世界が広がっていた。
薄く煙る室内を赤や緑や紫色の光が過る。一体どのような仕掛けの演出なのかわからないが、まるでなにかの術でも使っているみたいだ。少なくともユーリンの目にはすべてが法術によってなされる魔法のように映っていた。
広間を進んでいけば、重低音と、聴いたこともないような詞が響いてきた。
舞台上では月仙・嫦娥の如き美女が見事な歌声――高音ですこし速いリズムの歌曲だ――を披露し、「好、好!」「好、好好!」と客から喝采が飛んでいる。
他にも大勢の美男美女の姿がある。美酒に酔う者がいれば、料理に舌鼓を打つものもいる。
「すごい……こんな場所が地下にあるなんて」
「これはちょっと予想外だなぁ」
グウェンも感心したように辺りを見回している。でも、彼はここが気に入ったらしい。口ぶりや表情でそれがわかった。やってきた給仕が一行を席へと案内する。
「さて。後は……わかるな?」
円卓に座すとルオシーが囁いた。
「打ち合わせ通り、全員ができれば選ばれるように振る舞う。いいな? 誰かが選ばれれば女に会えるし、残った奴が裏側に回って主催者の方を調べる、と。だめならその時はその時、忍びこんじまえばいい。だが、おれは顔が割れているから多分ダメだ。表で見張りと連絡役に徹することになるだろう」
「でも、どうやって拝謁の意志を示すんですか……?」
「これさ」
ルオシーが手のひらほどの大きさの札を手に取り、ユーリンに手渡した。
「これは……なんですか?」
「局票だよ。通常は芸妓歌妓の先生を宴席に招待するとき、そのお呼び出し用に使う札なんだがね。この店では逆に使われるようだ。希望の演目と名前を書いた札をボーイに渡すだけ。表向きは演目の希望を伝えるとみせかけて、あとは向こうからお声が掛かるのを待つって寸法よ。上手くいくといいんだがな」
「焦れてもしかたありませんよ。飲みながら待ちましょう」
すでに頼んでいた緋酒を一口呷り、グウェンは柔らかく微笑む。いつの間にかすっかりこの場に馴染んでいたようだ。ユーリンは驚いたが、なんとグウェンときたらすでに局票も書き終えてしまって、紅包とともにボーイに渡したというではないか。
「前から思っているんだが、おまえのその落ち着き様はなんなの? 悟りの境地か何かなの?」
「先生の精神構造がおかしいんです。お気になさらないで」
舞台では次の演目が始まったようだ。どことなく淫穢な雰囲気で、多分に扇情的な匂いの漂う芸である。書場にて演ぜられる講唱文芸と似ているが、やはり別の国のものなのだろう。
ユーリンも興味がないわけではない。歌に耳を傾けながら酒杯を呷るふりをする。その耳元へ、グウェンが不意に唇を寄せてきた。
「ふ、ふにゃっ……!」
「ユーリン。もっと僕に寄ってくれないと、怪しまれてしまいますよ」
「あ、そう、でしたね……え、と……私はどうすれば……」
言い終わる前に引き寄せられて、ユーリンはグウェンの肩にしなだれかかる恰好になった。
「えっ、わっ、せ、先生?」
「こんな感じで。あとは適当に合わせてください」
「て、適当……って」
……近い。どうしよう。近すぎる。
髪の匂い、煙草の匂い。それに、グウェン自身の匂いが鼻をくすぐる。そして、すごく温かい。自分の冷たい体が溶けてしまいそうなくらい。
心臓が止まっていてよかった。でないと、きっとばれてしまっていただろう。
こんなこと、私は願ってはいけない。
そう思ったけれど、でも――もしも、ずっとこうしていられたら……。
と、その時であった。
「ラウ……グウェン様ですね?」
「ええ、そうですが」
つ、と近寄ってきたボーイがダリアの花を一本手渡し、グウェンに耳打ちをする。
グウェンはユーリンの腕をほどくと、やおら立ち上がった。
「ごめんよ、ユリン、ルオシー。ちょっと出てくる」
「おう、いってこい」
グウェンは隙をついて屈むとユーリンの耳元へ口づけるふりをして、「当たりを引いたようです。主催者の方は任せましたよ」と囁いて踵を返した。
人混みを縫いながら、舞台の裏側の方へとその姿が遠ざかってゆく。
「驚いたな。あいつ、どうやったんだ?」
「わかりませんが、おそらく先ほどの局票になにかした可能性が高いと思います」
「やれ、相変わらず手癖の悪いやつだな」
そして舞台横の暗がりへ、その背中が消えた。ちくり、とユーリンは胸に正体不明の痛みを覚えた。束の間訪れた幸福を気まぐれに取り上げられてしまったように感じたからだ。
それに、これからグウェンが邂逅するのは絶世の美女と謳われる女性なのだ。
「奴のことが心配かい?」
ルオシーが何かを読み取ったように笑っている。敏い男だと思った。なぜだか、ルオシーのことがほんのすこしだけ憎くなった。
そうだ、こんなもの、なんでもない。あの人も私も、霊幻道士の役目を果たすだけだ。
「……いいえ。先生ならば必ず上手くやるはずです」
「ならいいんだが。さて、ユーリン」
「ええ。私も動きます。ラウさん、見張りはお願いしますね」
「おう、おまえも気をつけろよ」
ユーリンはグウェンが向かった場所とは反対側へ向かって歩きだした。
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