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日向の足音が止まった。
きっとネコみたいに目をまんまるにしてるんだろう。少し離れてから俺も立ち止まる。振り返ってはいけない気がした。
「……どうして?」
「んん。説明しづらいけど、人間不信、的な。俺、名字変わってるんだ。両親がドロ沼のファイトしてるから、とりあえず母方の実家に引き取られたって感じ」
いろいろドロドロしてて何も見たくなくなったんだよ、と付け足した。
俺の家庭事情に尾ひれがついて、学校で言いふらされてる──相談した奴なんてひとりしかいなかった。その日から友達の顔も見えなくなった。
「……僕も?」
背後から、日向の寂しそうな声。
捨てられたくないネコみたいで、思わず笑ってしまった。
「日向のは、薄いかな。ちょっと顔が見えてる」
「……それでも、あるんだね」
「不思議な感覚だよ。日向が笑うとモザイクが薄れる。心の隙間に入ってきそうになる。あ、こいつやべぇな、っていつも思う」
日向がいきなり俺に飛びついた。抱き止めそこねて、背中から砂浜に倒れ込む。
「なんだよ!」
「別に」
「危ないだろ」
「痛かった……?」
「……痛くなかったよ。別に、いいけど」
日向の後ろに広がる空と目が合った。モザイクひとつない青空。
日向の顔からはすでにモザイクが消えている。上気した頬を伝うしずくは、汗にしては透明できらきらしていた。
潮の香りがする。太陽の匂いがする。日向の軽くてまっしろな身体は、いつか海の泡のようにはかなく弾けて消えてしまう。
「笑って、日向」
自分の睫毛からも、しずくが横に流れ落ちていくのがわかった。日向の頬に手を添える。日向が頷く。
ぱぁっと、太陽が花咲く。点滴や薬剤や、ナースコールとはほど遠い、晴れやかな満面の笑顔。
あぁそうか、と気がついた。日向の夏は終わらない。どこに閉じ込められて苦しもうと、日向の夏は広がっているのだ。その美しい想い出のなかで、日向は俺に会いに来る。晴れ渡る海辺で、太陽の笑みをこぼし合って。
細く折れそうな手を繋いだ。モザイクが晴れた夏空に浮かぶ眩しい太陽を見せてくれた日向に、せいいっぱいの感謝の気持ちと、がんばってまた帰ってこいよ、約束だぞ、のメッセージを込めて。
─了─
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